私たちの帰る場所 ~ドラッカーからの贈りもの~
7/14(日)に、中延にある「隣町珈琲」で行われた以下のイベントに参加してきました。
ここんとこ、会社の人事制度やら、都知事選の結果やらでモヤモヤを感じることが多かったのですが、登壇者の皆さんの話を聴かせていただいているうちに、胸につかえがスーッと降りていった感覚を覚えました。
その感覚を忘れないうちに記しておこうと思います。
能力主義に傾斜していく人事制度
先月、勤め先で、管理職向けに「人材流動化施策」なる施策が人事より説明されました。これがまた筋が悪い。
この施策、どんなものか要約すると、能力が高く好成績をあげる社員を「ハイパフォーマー」、能力が低く成績の上げられない社員を「ローパフォーマー」と分類し、ハイパフォーマーに対しては高い報酬を与え、ローパフォーマーは管理職主導で改善を促し、それでも改善が見受けられない場合は切り捨てなさい(管理職が異動や出向や転職を促す)というものです。
言ってみれば、現場の管理職主導でリストラを進めなさい、という類のもの。
表向きダイバーシティとか言っておきながら、分断を作り、差別を生み出し、そして人を簡単に切り捨てる施策に疑問を感じた私は、人事に質問を投げてみました。
この施策は「フェアな評価」が行われることが前提となっているが、この会社では本当に「フェアな評価」は行われているのか?と。
そしたら、「行われているとは言い難い」、という返事がきました。
つまり、アンフェアな評価が行われ、不当に「ローパフォーマー」と認定されてしまった社員も切り捨てられる可能性がある、と人事が認めてしまっています。(そもそも何をもって「言い難い」と判断しているかも不明だし、「言い難い」どころか実態は全く行われていない)
人が人を評価する以上、「フェアな評価」など行われる訳もなく、もはやこの施策は施策として成り立っていないのではないか、非常に危うい施策ではないのか、と追加で問うてみたものの、それ以降、人事からの返事は途絶えました。
今日のイベントの対談の後半、「能力主義」の話題がでましたが、その話を聴いていて気づいたのは、「フェアな評価」の定義が、私と会社(人事)とで大きく違っているんだなということ。
会社が(人事が)言っている「フェアな評価」とは、会社に業績をもたらした者にはちゃんと褒美(給料や昇進機会)を与える、という意味で「フェア」という言葉が使われているんだなと。
つまり、評価された結果に対してはフェアに扱う、と言っているのであって、評価のあり方(優劣の付け方)についてはフェアかどうかは全く考えられていない。すべては現場管理職の感覚次第。あいつは気に入らないと思ったら、評価を下げることが簡単にできてしまうわけです。(過去の私がやられたように・・)
能力主義の危うさは改めてここで多くは語りませんが、「能力」という極めて曖昧で差別的要素を含んだ概念を軸とした評価制度が幸せな結果を生み出すとはとても思えず、組織の将来を大いに危惧しました。
こんな感覚を抱いている社員は、今の組織ではほんの僅か。マイノリティな存在でいつも肩身の狭い思いをしていますが、それは登壇者のひとりである井坂康志さん(ドラッカー学会共同代表)によれば「修行」であるとのこと。
また、同じく井坂さんからは、会社という組織はある意味社員を「洗脳」している、という話も飛び出し、私にとっては非常に救われる思いでした。
「洗脳」されてしまった人は、自ら気づき目覚めるのかなり難しい。人事の人たちの目が覚めるには相当な時間を要するでしょう・・。
都知事選の結果に感じた恐怖感
実は、先日の都知事選の結果についてどう感じているか、登壇者の皆さんに質問してみようかな、と思っていたのですが、奇しくも対談の冒頭、その話題になりました。
皆さん、「怖さを感じた」と仰っており、あぁ自分の感覚はズレていなかったんだとほっとしました。
しかしこの「怖い」という感覚は、ドラッカーを読んでいなければ湧いてこなかった感覚かもしれない、とも思っています。
ドラッカーさんの関心が組織の「マネジメント」に向かった背景には、全体主義に基づく恐怖政治(つまりナチスドイツ)に対する警戒心がありました。(ドラッカーさん自身、ナチスからの迫害を逃れ、アメリカに亡命するという経験をしています)
健全な世の中、つまり人が幸せに生きる社会のを実現するには、社会の主たる構成要素である組織において健全な「マネジメント」が行われている必要がある。ドラッカーさんはそう考えたのです。
しかし今回の都知事戦で大躍進を遂げた某候補のやり方は、全体主義を感じさせるものでした。そしてそのやり方に一定数の支持が集まってしまったことに、怖さを感じました。
ドラッカーも既に古典の分類に入るのだと思いますが、いま、古典を学ぶことの意義を強く感じています。(COTEN RADIOを聴いている影響もあり)
我々はどうしても、最新の洗礼された(ように見える)目新しいソリューションに目が行ってしまいがちです。しかしそれは本当に人々を幸せにしてくれるソリューションなのか。それを見極めるためには、古典や歴史を学ぶことでもたらせてくれる「教養」が必要なのだと思います。
最近気になっている「ニューロ・ダイバーシティ」という考え方
上で書いた、能力主義をベースとした人事評価制度。
言ってみれば、優れた人種と劣った人種に区分し、優れたとされる人種を優遇し、劣ったとされる人種を冷遇し差別する。正に全体主義を彷彿させます。
こんな制度が許されていいのかとモヤモヤしているなか、「ニューロ・ダイバーシティ」を思い出しました。
以前、「ニューロダイバーシティの教科書」の著者であり、この領域の第一人者である村中直人さんのセミナーを聴かせていただいたことがあります。
村中さんはこう仰っていました。
つまり人の能力には優劣などなく、その人が持っている脳の「特性」が、ある環境では「能力がある」として評価されるし、ある環境では「能力がない」と評価される、ということになります。
前に「ローパフォーマーなどこの世に存在しない」という記事を書いたことがありますが、このニューロ・ダイバーシティという考え方に近いものがあるなと感じました。そして何よりドラッカーの思想とも親和性が高い、というかドラッカーの「マネジメント」そのものと言えるのではないかと感じます。
例えばドラッカーさんのこのくだり。
ドラッカーの思想の中心には、いつも「人」がいます。
人がその能力を存分に発揮してもらう為に「マネジメント」がある、という考え方です。
言い方を変えれば、人がその能力を存分に発揮できない原因は、「マネジメント」にあります。決して、個人に原因がある訳では無いのです。
この「ニューロ・ダイバーシティ」という考え方。気になる方は、こちらの番組でぜひ詳しくお聞きいただければと思います。
我々の居場所を示してくれる「ドラッカー」
対談の中で、登壇者の青木真兵さん(「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」キュレーター)が紹介していたのが、『思想家としてのドラッカーを読む』(仲正正樹)という書籍。その中から以下一文を紹介していました。
これを聞いて、ああそうだ、正に自分の戻るべき「居場所」はここなんだなと実感することができました。
ここまで書いてきた会社の人事制度に感じる嫌悪感。或いは都知事選の結果に覚える恐怖感。
心に抱くこれらの感情によって、惑わされ、ときおり道に迷いそうになるけれど、イベント会場にいる私に対し、君の「居場所」はここなんだよとドラッカーが教えてくれているような気持になりました。
そして何より、この「居場所」に戻ってくれば、ドラッカーを一緒に学ぶ「仲間」に会える…ひょっとしたらこの「居場所」という感覚が、ドラッカーが我々に残してくれた最大の贈り物かもしれません。
毎日のように道に迷いそうになり、あっちいったりこっちいったりふらふらしていますが、行き先を見失いそうになってしまったら、またこの「居場所」に戻ってきたいと思います。
※そういえば、2年ほど前にもこの会場(隣町珈琲)で、井坂さんのセミナーを聴いていました。ここに戻ってくるのは必然だったのかもしれません。