「ブルーピリオド」を読んだ:八虎が飼ってる小さな虎
8月27日(土)晴れ
自分自身を振り返る機会が多いせいか、「ブルーピリオド」を何度か読み返している。「ノーマークス」というアート・コレクティブの代表・フジキリオに接したことで八虎の美術の世界が大きく広がるきっかけになった、ということなのだけど、読んでいる途中では八虎がどこへ行ってしまうのかハラハラさせられた。これは、この作品を読んでて初めての感覚ではあったのだけど、受験まで「合格」という明確な目標があり、それに向かってスポ根的に努力してそれを達成してから、藝大に入って広大なアートの世界の端っこで戸惑いながら自分を見つめていたのが、一度自分を捨ててアートに、というよりはアーティストに熱中してみることで、犬飼教授の言うように「明確に一皮むけた」のだなと思う。アートが人を変えることもあれば、人が人を変え、そしてその人の作り出すものを変えることもある。この先の展開がどうなるかはわからないけど、八虎が作り出すものを楽しみにしたいと思う。
フジキリオが「八虎の飼っている小さい虎」を「私は好きですよ」と言うのだが、虎とは何を意味するのだろうと思ったが、読み返したときに八虎と出会った時にフジが「山月記」の虎の話をしていたことと、講評の時に犬飼教授が「君の他人の視線に対する自意識過剰性が見事に昇華されてますね」と言ったことを考えると、この「虎」とは八虎の自意識、山月記で言えば「尊大な羞恥心」とか「臆病な自尊心」とかと重なるものだけど、つまりはその「八虎の自意識のあり方そのもの」が「小さな虎」なんだろうなと思った。それを作品にすると言うのはまあ考えてみたらすごいことで、「神回」と言って片付けるにはもったいない話だったなと思う。
とても面白かった。
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