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【初心者向け】自由エネルギー原理の基礎を学ぶ【脳科学】
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序章: 自由エネルギー理論とは何か?
私たち人間の脳は、一見するととても複雑な働きをしています。しかし、その複雑な働きを貫くシンプルな原理があるとしたらどうでしょうか?自由エネルギー理論(または自由エネルギー原理)とは、まさにそんな壮大な仮説です。イギリスの神経科学者カール・フリストンによって2000年代に提唱されたこの理論は、「脳は常に予測を行い、予測と現実のズレ(予測誤差)を最小化しようとする」というものです。ざっくり言えば、脳は“予測マシン”であり、驚きを嫌うということになります。
実は、この「脳は予測する」という考えの源流は古く、19世紀の生理学者ヘルムホルツが視覚に関して「無意識の推論」と呼ぶアイデアを提唱していました。つまり、私たちの脳は感覚入力から無意識に外界を推測しているという発想です。その後、20世紀末には「ベイズ脳仮説」として、脳はベイズ統計の推論に従って確率的に世界を予測しているという理論枠組みが発展しました。フリストンの自由エネルギー理論は、これらの先行する考えを包含しつつ、脳のあらゆる働きを一貫した数理モデルで説明しようとする試みなのです。
では「自由エネルギー」とは何でしょうか?もともとは熱力学の用語ですが、ここでは「驚き」(予測の不一致)の程度を表す指標と考えてください。脳は自分自身の内部状態や外界の状況について絶えず仮説(予測)を立てています。そして感覚を通じて得られた現実のデータと照らし合わせ、その仮説がどれくらい外れていたかを計算します。この外れ具合が大きいほど“自由エネルギー”が高い、つまり脳にとって予想外の事態だということになります。逆に、予測通りであれば自由エネルギーは低く、脳にとって安心できる状態です。
自由エネルギー理論の核心は、「生きている生物なら、自分にとって予測外の事態(自由エネルギー)が高い状態を放っておかないだろう」という考え方です。私たちの脳は、自分の身に降りかかる出来事があまりにも予想外ばかりだとストレスを感じますし、最終的には生命の維持すら危うくなります。そこで、脳は巧みに予測モデルを作り上げ、先読みすることで驚きを減らそうとします。同時に、予測と現実のズレ(誤差)を見つけては修正し、世界をもっと正確に理解しようと学習します。この「予測して、ズレたら直す」というサイクルが脳の基本原理であり、自由エネルギー理論はそれを数理的に表現したものなのです。
もう少し噛み砕いてみましょう。例えば暗い部屋で手探りで歩くとき、私たちは壁や障害物がどこにあるか頭の中で予測しています。そして足や手が何かに触れたり、目が暗闇の中で微かな輪郭を捉えたりすると、その感覚と自分の予測を照らし合わせます。「思ったより早く壁に触ったぞ」となれば予測が外れて驚きます(自由エネルギー増大)。すると脳は「壁はもっと近かったんだ」と学習し、次の一歩ではより慎重になるでしょう。このようにして、脳は自分の世界モデルをアップデートしながら行動を調整します。要するに**「予測→感覚でチェック→修正」**というフィードバックループで、生き延びるために必要な安定性を保っているのです。
自由エネルギー理論は、このフィードバックループを包括的に説明する理論枠組みです。驚き(予測誤差)を減らすために脳ができることは2つあります。1つは**「予測を更新する」こと。つまり「今の予測は間違っていたかもしれない」とモデルを書き換える方向です。もう1つは「行動して環境を変える」**こと。つまり予測の方を現実に近づけるために、自分から環境に働きかけるというアプローチです。例えば寒いと感じたとき、脳は「寒いぞ」という予測誤差を減らすために、暖房をつけるとか上着を羽織るといった行動を取ります。これは「自分の予測する快適な温度」に環境を近づけるようなものです。一方で、環境を変えられない状況なら、脳は自分の状態の方を調整します。震えたり代謝を上げたりして体温を維持し、「寒さに適応できている」という新たな予測に切り替えるのです。行動によって予測を現実に合わせ込むか、学習によって予測そのものを改善するか——この両面で脳は自由エネルギー(予測誤差)を下げようとしているわけです。
このように自由エネルギー理論は、「脳は予測に基づいて知覚し、行動し、学習している」というベイズ脳仮説や予測符号化理論を発展・統合したものです。一見バラバラに見える知覚・認知・行動・学習といった脳の機能が、実は一つの原理(驚きを減らす)で説明できるというのは、とても魅力的ですよね。もちろん非常に包括的な理論なので、「何でも説明できすぎるのでは?」という議論もあります。それでも近年、この自由エネルギー理論を応用して人間の多様な心的現象を説明しようという試みが世界中で活発に行われています。欲求や感情から意思決定、ひいては精神疾患や社会的な相互作用まで、脳のあらゆる働きを“予測と誤差修正”という観点で捉え直そうというのです。ここからは、自由エネルギー理論と脳の働きの関係、そして直近5年ほどの最新研究が明らかにしてきた知見について、具体的なトピックごとに見ていきましょう。
自由エネルギー理論と脳の働き: 人の欲求や意思決定との関係
自由エネルギー理論の観点から見ると、私たちの欲求や意思決定もまた「予測」と「予測誤差」の産物だと考えることができます。どういうことでしょうか?脳は単に目の前の出来事を予測しているだけでなく、自分が望む未来についても予測(期待)を立てています。言い換えれば、「○○したい」「○○が欲しい」という欲求は、脳内では「自分は○○を手に入れるだろう」「○○という状態になるはずだ」という将来の予測として表現されているということです。
例えば、お腹が空いているとき私たちは「何か食べたい」と感じますね。自由エネルギー理論では、これは身体の内部状態に関する予測誤差として説明できます。体内のエネルギーが減って血糖値が下がると、脳の予測モデル(「自分の体はエネルギーが十分満たされているはず」という予測)とのズレが生じます。このズレ(予測誤差)を脳は不快なサインとして検知し、「エネルギー不足」という驚きを解消しようとします。そこで「食べ物を摂取して血糖値を上げる」という行動目標が生まれます。つまり「お腹が空いたから食べる」という行動の裏側では、「本当は満腹であるはずなのに満腹でない」という予測誤差をなくすために能動的に環境(ここでは自分の体の状態)を変えようとする脳の働きがあるのです。
このように、欲求というのは脳にとって「期待している状態と現状とのギャップ」と捉えることができます。喉が渇けば「本当は身体に十分な水分があるはずなのに足りていない」というギャップが生まれ、脳はそれを埋めるべく渇きを感じさせて水を探す行動を起こさせます。高い目標を掲げて努力するときも、心の中には「このくらい成長していたい自分」というイメージが予測として存在し、現実の自分とのギャップが原動力となっていると言えるでしょう。
意思決定もまた、予測誤差最小化の視点から説明できます。自由エネルギー理論を土台とした**能動的推論(アクティブ・インフェレンス)**という考え方では、私たちが行動方針(ポリシー)を選ぶとき、将来の予測誤差の総量(=期待自由エネルギー)が最も小さくなるような選択肢を無意識に好むとされています。期待自由エネルギーとは「この行動を取ったら将来どれくらい驚きが減るだろうか」という見積もりです。驚きが減るというのは、言い換えれば「自分の望む結果が得られ、かつ不確実さが解消される」ことです。ですから、期待自由エネルギーを最小にする行動というのは、「自分の欲求を満たしつつ、なるべく不確実さの少ない(見通しの立つ)結果をもたらす行動」と定義できます。
例えば、レストランで「いつも頼む美味しい定番メニュー」にするか、「興味はあるが味の想像がつかない新メニュー」に挑戦するか迷う場面を考えてみましょう。前者は経験済みでハズレがなく安心ですがワクワク感は小さめ、後者は大当たりの可能性もある反面、口に合わないリスクもあります。このように、どちらの選択肢を取るかは、この期待自由エネルギーのバランスによって決まると考えられます。前者は「驚きが少ないが得られるもの(報酬)も小さい」選択、後者は「驚きの大きさはピンキリだが大きな報酬の可能性がある」選択と言えます。どちらを選ぶにせよ、脳内ではそれぞれの選択肢に対して「自分の目的が達成されるだろうか?」「新しい情報が得られて不確実さは減るだろうか?」といったシミュレーション(予測)が行われ、その結果次第で行動方針が決まるのです。
要するに、欲求や意思決定は「どうすれば自分にとって望ましい状態になれるか」を巡る脳内予測と、その精度を上げるための試行錯誤だと捉えることができます。昔から心理学では「人間は快楽を追求し苦痛を避ける」と言いますが、自由エネルギー理論の視点ではそれは「予測誤差を減らす」ことと表裏一体です。快楽(満たされた欲求)は予測誤差が小さい状態、苦痛(満たされない欲求や予期せぬ悪い出来事)は予測誤差が大きい状態と言えるからです。
興味深いことに、この理論は好奇心や探究心といった高次の欲求も説明に取り込もうとしています。私たちは本能的な欲求(空腹や喉の渇き)が満たされているとき、退屈を紛らわせるために新しい遊びを始めたり未知の知識を求めたりしますね。これは一見「わざわざ驚きを増やしている」ようにも思えます。しかし脳にとっては、まったく刺激や変化がない状態もある意味で不都合なのです。自分のモデルが完璧すぎて何の誤差も生じない状況では、脳は学習による成長ができませんし、環境の変化に対応できないまま取り残されてしまうかもしれません。そこで、適度な範囲で予測誤差を生み出し、それを解消することで快感を得るという仕組みが備わっていると考えられます。これが好奇心やチャレンジ精神の正体だというわけです。確かに、簡単すぎる課題ばかりでは退屈しますが、難しすぎる課題ばかりでも心が折れてしまいますよね。人は自分の能力で程よく予測できる範囲内で、新しい刺激を求める傾向があります。これは**「ちょうどよい難易度」のものに惹かれる**心理として知られており、自由エネルギー理論はその傾向を理論的に説明しようとしています。
ここまで、自由エネルギー理論が欲求や意思決定に対して提供する見方を見てきました。要約すれば、脳は自分が望む状態を予測し、その予測を現実にするために行動し、得られた結果からさらに学習するということです。この包括的な視点に立つと、感情や動機づけ、さらには異常な行動までも同じ枠組みで理解できる可能性が出てきます。ちなみに、一度身についた習慣(癖)のような行動パターンは、脳にとって予測誤差の少ない安全なパターンと言えます。習慣化された行動はほとんど驚きを生まないため自由エネルギーが極めて低く、脳はそれに安住しようとします。そのため、新しい変化を起こそうとしてもつい慣れた行動に戻ってしまうという現象が起きます。自由エネルギー理論の観点から見ると、人が習慣に縛られやすい理由もうかがえるでしょう。次章からは、実際に最近の研究が明らかにしてきた具体的なトピックに目を向けてみましょう。
最新研究①: 自由エネルギー原理と情動・報酬系 – 感情と「ご褒美」を予測で読み解く
私たちが日々感じる喜怒哀楽などの情動(感情)や、何かを達成したときの報酬の感覚(ご褒美感)は、一見するととても主観的で説明しにくいものです。しかし自由エネルギー理論の観点を持ち込むと、感情や報酬のメカニズムも「予測と誤差の処理」として理解できる可能性が見えてきます。
まず感情について考えてみましょう。驚いたり嬉しくなったりするのはなぜでしょうか?一つの考え方は、感情とは「予測誤差の大きさ」や「予測誤差が変化する速さ」に対する脳の反応だというものです。例えば、予期せぬ良い出来事が起きたとき、脳は大きな予測誤差(良い意味での驚き)を経験します。このとき私たちは「嬉しい!驚いた!」とポジティブな感情を感じるでしょう。逆に、予期せぬ悪い出来事(たとえば急な失敗や事故)が起きたときも予測誤差は大きくなりますが、今度は「悲しい」「怖い」といったネガティブな感情になります。つまり、予測誤差の大きさ自体が情動の強さを生み、その誤差が良い方向か悪い方向かで感情の質(快・不快)が決まるという見方です。
さらに踏み込んだ最新の仮説では、感情の「快・不快」(いわゆる感情のバレンス)は、予測誤差がどれだけ迅速に解消されているかを反映するのではないかとされています。どういうことでしょうか?簡単に言えば、脳にとって「問題が解決に向かっている」ときには快い感情が生まれ、「問題が解決せず悪化しそうだ」と感じると不快な感情になるということです。例えば、難しいパズルを解いていて「あ、ひらめいた!解けそうだ!」と感じる瞬間には、脳内では予測誤差が一気に減り始めています。こうしたとき私たちは喜びや安堵を感じますよね。反対に、頑張ってもうまくいかず「どうしよう、もっと混乱してきた…」というとき、脳は予測誤差を解消できずにむしろ増やしてしまっています。このとき感じるのは焦りや苛立ち、悲しみといった負の感情でしょう。最近の理論研究では、このように感情の質(ポジティブ/ネガティブ)を予測誤差低減の成功度合いとして定式化してみせています。言い換えると、脳が「うまく予測できている!」と感じられるときが幸福で、「全然予測通りにならない…」と感じるときが不幸だというわけです。少しドライな言い方ですが、幸福感とは脳内でエラーがスムーズに修正されている状態とも言えるのです。
また、「驚き」の量だけでなく種類によって感情が変わることも考えられます。人間の基本的な感情には喜び、怒り、恐れ、悲しみ、驚き、嫌悪など様々ありますが、自由エネルギー理論ではそれらも脳がどの領域でどんな予測誤差を検出したかによって説明しようという試みがあります。例えば、突然の大きな物音に驚いて心臓がバクバクするのは、聴覚や視覚の予測誤差に加えて「心拍が上がった」という内臓感覚の予測誤差も生じ、それを脳が「恐怖」としてラベリングするからだ、というような説明です。このように身体の内部状態(内受容感覚)の予測も含めて考えることで、単なる情報的な驚きと情動的な驚きを区別し、後者が恐怖や不安として意識されるメカニズムを探ろうという研究も盛んです。
次に報酬系について見てみましょう。報酬とは平たく言えば「ご褒美」のことです。美味しいものを食べたり目標を達成したりするとき、脳はドーパミンという神経伝達物質を放出して私たちに快感や満足感を与えます。これが報酬系の代表的な働きですが、自由エネルギー理論においてこの**「ご褒美感」も実は予測誤差と深く関係しています。脳は常に「こうなったら嬉しいな」という期待(予測)を持っています。そして実際に嬉しい出来事(例えば欲しかった物を手に入れるなど)が起きると、「嬉しいはずだ」という予測と現実が一致します。先ほど感情のところで「予測誤差が迅速に解消されると快」と言いましたが、まさに望んだ結果が得られることで予測誤差が解消された瞬間**に報酬の快感が生じるのです。ドーパミンはこの「予測が的中した!」という信号、あるいは「予測以上のご褒美があった!」という信号に関与していると考えられます。
従来の強化学習理論では、ドーパミンは「報酬予測誤差(RPE)」そのものを報告する信号だとされてきました。例えば「このサプライズなご褒美は予想より良かった/悪かった」という情報を伝える役割ですね。自由エネルギー理論を取り入れた最近のモデルでは、もう少し踏み込んでドーパミンが「どの行動方針を信頼すべきか」という判断(予測の確信度)にも関与するという仮説が提案されています。要するに、ドーパミンは単に結果に対する驚きを伝えるだけでなく、「今の行動パターンでうまくいくはず!」という確信を強めたり弱めたりする役割も持つのではないか、ということです。これによって、私たちがある状況で積極的に挑戦するか慎重になるかといった行動選択が、脳内の報酬系によって調整されている可能性が示唆されています。
まとめると、自由エネルギー理論と最新の研究によれば、感情や報酬の快・不快は脳内予測の成功・失敗のフィードバックだという見方ができます。嬉しい感情や満足感は「うまくいった!予測通りだ!」というサイン、悲しみや不安は「予測が外れた…どうしよう」というサインと言えそうです。そして脳内の報酬システム(ドーパミンなど)は、このフィードバックを学習に結びつけ、次の行動選択に活かす役割を果たしていると考えられます。こうした視点は、感情を単なる主観的な体験ではなく、脳が予測モデルを改善し生存に有利な行動を取るための重要な指標であることを示しています。
最新研究②: 予測符号化と欲求のダイナミクス – 好奇心は「驚き」を求める?
欲求のメカニズムを自由エネルギー理論で考えると、**「なぜ人は新しいものを求めるのか」「欲求の強さや方向性はどう変化するのか」**といった問いにもユニークな答えが見えてきます。最近の研究では、予測符号化(脳が予測と誤差の情報をやり取りする仕組み)の観点から、欲求や動機づけのダイナミクス(時間的変化)をモデル化しようという試みが行われています。
ひとつの鍵となる概念が「情報ゲイン」や「好奇心による探索」です。先ほど少し触れたように、私たちは単に報酬(ご褒美)を得るだけでなく、新しい情報を得ること自体にも価値を感じます。自由エネルギー理論では、この「情報を得ることの価値」を明示的に扱うことができます。それが期待自由エネルギーの中のエピステミック価値(知的価値)と呼ばれる部分です。簡単に言えば、「この行動を取ったらどれだけ未知が減るか?」という見積もりで、好奇心に相当します。期待自由エネルギーは「将来の驚きの総量」の予測でしたが、その中には「望む結果が得られない驚き」と「よく分からないことが分かるようになる驚き」の両方が含まれます。前者は避けたい驚き(外的な損失)ですが、後者はむしろ積極的に求めたい驚き(新知獲得)です。そこで、能動的推論のフレームワークでは行動方針の評価において「予測通りに目的達成できるか」と「どれだけ新しい知見が得られるか」のトレードオフを考慮します。
このトレードオフが欲求のダイナミクスを生む源と言えます。たとえば、ある程度環境について知識がたまって予測精度が上がってくると、人は飽きを感じて新しい刺激を求めます。これは「報酬(安定)」よりも「情報(変化)」を優先するモードにシフトした状態です。逆に、新しいことに挑戦して不確実さが増えすぎると、不安になって一時撤退し、慣れ親しんだ安全な活動に戻ることもあります。こちらは「情報」より「報酬(安心)」を優先するモードです。脳はこのバランスを状況や個人の状態によって動的に調整していると考えられます。自由エネルギー理論では、この調整自体も予測誤差最小化の原理で統一的に説明できる可能性があります。言い換えれば、「今は探索した方が長期的に驚きが少ないぞ」と判断すれば好奇心が駆動され、「今は手堅く安定を図った方がいい」と判断すれば保守的になる、とモデル化できるのです。
実際、この考えを検証するためのシミュレーション研究も行われています。2019年前後の研究では、仮想エージェント(人工の意思決定主体)に能動的推論のアルゴリズムを組み込み、好奇心による探索行動がどのように生まれるかを解析しています。そこでは、エージェントが未知の環境で新情報を求めて動き回る様子や、ある程度情報を得たら今度はそれを元に確実に報酬を得に行く様子が確認されています。これは理論が示す通り、エージェントが自らの予測不確実性を減らすために行動を変化させていることを意味します。面白いことに、このモデルでは「好奇心旺盛すぎる」場合とバランスよく探索する場合とで成果が大きく異なります。極端に未知志向だとリスクが高くなりすぎ、極端に保守的だと新しい発見の機会を逃します。最適なのは両者のバランスで、適度に未知を探求しつつ、得た知識で確実に欲求を満たすという行動パターンでした。これは人間の行動とも直感的に一致しますよね。
さらに、人間の子供の発達研究からも示唆的な知見があります。乳幼児は刺激の強さが弱すぎても強すぎても興味を示さず、程よい複雑さや新奇さを持つ刺激に最も強い興味を引かれることが知られています。これは**「適度な予測誤差を持つ状況が一番面白い」という現象です。自由エネルギー理論の研究者たちは、これを乳幼児の脳が効率的な学習のために驚きの大きさをコントロールしている**結果だと解釈します。簡単すぎて何も学べない状況では飽きてしまい、逆に難しすぎて何も分からない状況では投げ出してしまうので、ちょうど良いレベルの未知がある環境を選んで探索するように脳が導いている、というわけです。実際、ロボットを使った実験でも、予測誤差が中程度になるような行動をロボット自身に選ばせると、効率よく環境について学習し、徐々に複雑な課題に挑戦するようになるとの報告があります。これは人間の赤ちゃんが徐々に高度なスキルを身につけていく過程とよく似ています。
以上のように、予測符号化と自由エネルギー理論のフレームワークは、人間の欲求の移り変わりや好奇心による行動を統一的に説明しつつあります。「欲しいものを手に入れたい」という動機と「知らないことを知りたい」という動機は、一見別物のようですが、どちらも**脳にとっては「自分のモデルをよりよいものにする」ためのドライブ(駆動要因)**だと考えられます。前者はモデルが期待する快適な状態に環境を近づけることで予測誤差を減らすプロセス、後者はモデルそのものをアップグレードして予測誤差を減らすプロセスと言えるでしょう。どちらも根底では「驚きを減らしたい」という原理でつながっており、その比重のかけ方が状況に応じて変わる——それが欲求のダイナミクスなのです。
最新研究③: 精神疾患との関連(うつ病、不安障害など) – 心の不調を「予測」の観点から理解する
自由エネルギー理論は、人間の脳がうまく機能しているときだけでなく、機能が乱れたとき(精神疾患の状態)も説明しようと試みられています。うつ病や不安障害などの心の不調は一見、個々に原因も症状も異なるように思えます。しかし予測符号化の視点を取り入れると、これらに共通するメカニズムが浮かび上がってきます。それは「脳の予測と学習の仕方に偏りや問題が生じている」という捉え方です。
まずうつ病について考えてみましょう。うつ病の典型的な症状として、「何をしても楽しくない」「将来に希望が持てない」といったものがあります。自由エネルギー理論の観点からは、これは脳が極度に悲観的な予測モデルに囚われている状態だとみることができます。健常な脳であれば、良い出来事が起これば「もしかしたらこれからいいことがあるかも」と予測を更新し、気分も上向くものです。しかし重いうつ状態の脳では、ポジティブな出来事が起きてもそれをうまく取り込めず、「どうせ自分には関係ない」「またすぐ悪いことが起きるに違いない」といった否定的な予測が頑固に維持されてしまいます。言い換えれば、本来なら下がるはずの予測誤差(嬉しい驚き)がうまく下がらないのです。脳は常に自分の内部モデルを自己確証しようとしますから、一度「世界は絶望的だ」というモデルができあがると、それに合わないポジティブな情報を無意識に無視したり過小評価したりしてしまいます。その結果、予測は変化せず、現実とのギャップ(本当はそこまで絶望的でないこととのズレ)が埋まらないままになります。この予測モデルの更新の停滞こそが、うつ病の本質ではないかというわけです。
もう少しかみ砕くと、うつ病の脳では「将来に対する期待値」が極端に低く設定され、それが自己成就的予言のように現実感を帯びてしまうと考えられます。何をしてもうまくいかないと予期しているので、挑戦する意欲も出ず、本当にうまくいかない結果になり、さらに悲観的な予測が強まる…という負のループです。自由エネルギー理論のモデルを使ったシミュレーション研究でも、悲観的な先入観(強い負の予測)があると、肯定的な経験から学習する効率が極端に下がり、常にネガティブな予測誤差が残存することが示されています。これは「何をやってもダメだ」という学習性無力感の状態に対応します。要するに、うつ病とは脳が「良い方向に予測を更新する能力」を失ってしまった状態とも言えるのです。
次に不安障害(不安症)について見てみましょう。不安障害では、明確な危険がない状況でも過度の心配や緊張が続きます。これを予測の観点から説明すると、脳が常に「何か悪いことが起こるかもしれない」という高い不確実性を想定してしまっている状態だと考えられます。平穏な日常であっても、脳内では「次の瞬間に危険が訪れるかも」「自分には予測できない変化が潜んでいるはずだ」といった予測が張り巡らされているため、常に警戒モードがオンになっているのです。これは言い換えれば、予測誤差に対する許容量が極端に下がっている(ちょっとした誤差でも見逃せず不安になる)状態とも言えます。不安症の人は「最悪のケース」を頭から振り払えず、小さな違和感や予想外の出来事に過敏に反応してしまいます。脳が過去のストレス体験などから「世の中は予測できない怖いことだらけだ」というモデルを学習してしまい、常に高い不確実性を見込んでいる可能性があります。
最近発表された理論論文では、不安障害を「学習された不確実性」として位置づけています。つまり、子どもの頃からの経験などで「世の中はコントロール不能だ」という学習がなされてしまうと、大人になって安定した環境にいてもその人の脳は「どうせまた制御不能な事態が起きる」と予期してしまうというのです。この場合、実際には問題がなくても常に予期不安が付きまといます。脳は予測誤差を最小化したいわけですが、不安症の場合、逆説的にも「常に最悪を予期しておけば外れても大した驚きではない」という戦略を取っているとも言えます。常に不安に構えていることで、かえって安心を保とうとしているようなものです。しかしもちろんそれでは生活の質は下がってしまいますし、慢性的なストレスで心身に負担がかかります。
自由エネルギー理論を応用したモデルでは、不安障害の状態を「環境の不確実性に対する脳の推定値が異常に高い」と表現できます。正常なら「まあ大丈夫だろう」と低く見積もるところを、不安症では「何かあるに違いない」と高く見積もる。これを数理モデル上で再現し、その結果として見られる行動パターン(例えば行動の回避傾向や注意の偏り)が実際の不安障害患者の特徴と合致することが示されています。こうしたモデル研究は、なぜ薬や認知行動療法が不安に効くのかというメカニズム理解にもつながります。要するに、それらの治療は脳に「そんなに不確実性を高く見積もらなくても大丈夫だよ」という新たな学習を促すプロセスだと捉えられるのです。
なお、強迫性障害(OCD)は「予測誤差を見逃すことができない」極端な状態とも捉えられます。僅かな不安要素(「手が汚れているかも?」という予測誤差など)を解消するために過剰な確認行為や儀式行動を繰り返すのは、誤差をゼロにしようとする脳の戦略が暴走した結果と考えられます。また心的外傷後ストレス障害(PTSD)では、過去の恐怖体験に基づく予測が常に現在の状況に影を落とし、安全な場面でも身体が過剰なストレス反応を起こしてしまいます。これも言い換えれば、過去に形成された非常に強い予測モデル(トラウマ)が更新されずに残り続け、現在との間にズレが生じ続けている状態です。
うつ病や不安障害以外にも、自由エネルギー理論は様々な精神疾患の説明に応用されています。例えば統合失調症では、「脳が予測誤差の重み付け(精度)を誤っている」という説が有力です。具体的には、どうでもいい雑音のような誤差に過剰に意味付けしてしまうため幻覚や妄想が生じるというものです。脳内で予測と感覚入力を突き合わせる際、通常なら「ノイズだから無視」と処理するような微小な誤差に対して、統合失調症の脳は「何か重大な意味があるかも!」と捉えてしまう。結果、本来は存在しない声(雑音)を「誰かが喋っている」と感じたり、偶然の出来事を「陰謀の証拠だ」と確信したりするわけです。この説明も、自由エネルギー理論の文脈で精度パラメータ(予測誤差に対する信頼度)の異常として定式化されています。
自閉スペクトラム症(自閉症)についても、予測処理の独特な特性で説明しようとする研究があります。自閉スペクトラムの人は予測誤差に対する敏感さが高すぎるため、日々の些細な変化で強いストレスを感じたり、新しい環境への適応が難しかったりするという仮説です。また逆に、一部の事柄に対しては過剰に安定した予測モデル(こだわり)があって、そこから外れるとパニックになるとも考えられます。例えば、予定外の出来事や感覚刺激に対して強い苦痛や混乱を覚えるのは、脳が予測していない変化に過敏に反応し、誤差を処理しきれなくなってしまうためだと解釈できます。一方で、特定のパターンやルーティンへの強いこだわりは、環境の変化を抑えて予測誤差を最小に保とうとする適応的(しかし極端な)戦略と見ることもできます。このように、人によって予測誤差の処理の仕方に偏りがあると、周囲から見ると奇妙な行動や苦痛に見える症状として現れてくるわけです。
このように、自由エネルギー理論は精神疾患を「予測処理システムの不具合」として統一的に説明し得る枠組みを提供しつつあります。もちろん、うつ病と統合失調症では原因も治療法も大きく異なりますから、一つの理論で全てが片付くわけではありません。しかし、「脳が世界をどう予測しているか?」という観点を持つことで、違う症状同士に思わぬ共通点が見えたり、一方の疾患で培われた治療戦略が他方にも応用できるヒントが得られたりするかもしれません。例えば、認知行動療法は患者さんの認知(予測モデル)を書き換えるアプローチですが、これは広い意味で自由エネルギー理論の言う「予測を更新して誤差を減らす」に当たります。また薬物療法が脳内の神経伝達物質に働きかけるのも、先述のドーパミンの例のように予測誤差の重み付けを調整する作用とみなすことができます。今後、この理論に基づいた計算論的精神医学が発展すれば、各個人の脳内予測モデルのクセを客観的に計測・シミュレーションして、より効果的なオーダーメイドの治療方針を立てる、なんてことも夢ではないかもしれません。
最新研究④: 社会的認知や共感のメカニズム – 他人の心を予測する脳
人間は社会的な生き物です。他者の存在は我々の環境の重要な一部であり、脳は「他人」を予測することにも多くのリソースを割いています。では自由エネルギー理論の視点から、社会的認知(他者の意図や感情を理解すること)や共感はどのように説明できるでしょうか?
ポイントは、自分の脳が持つ予測モデルを利用して他者の状態を推測するという発想です。我々は他人の行動や表情を見て、「きっとこの人は今こんなことを考えているだろう」とか「この表情は悲しんでいるに違いない」と推測します。これは心理学で**「心の理論(Theory of Mind)」**とも呼ばれ、他者に心を仮定して理解する能力です。自由エネルギー理論を応用すると、この能力も予測誤差最小化の仕組みで説明可能になります。すなわち、自分自身の脳内モデルを他者に当てはめ、そのモデルから予測される他者の行動と実際の行動とのズレを捉えて修正するというプロセスです。
具体的に考えてみましょう。例えば友人が渋い顔をしているのを見て、「何か嫌なことでもあったのかな?」と感じたとします。このときあなたの脳内では、まず「嫌なことがあった人はこんな表情をするだろう」という予測モデルが働いています。そして友人の表情という観察データと照合し、「やっぱりそうかもしれない」とある程度確からしいと感じれば「同情しよう」「力になりたい」といった反応(行動)につながるでしょう。逆にもし予測が外れて「渋い顔だけど別に落ち込んでいるわけではなさそうだ」と判明すれば、その推測は捨てて別のモデル(例えば「単に眩しかっただけかも」)に切り替えるかもしれません。このように、他者の心を推し量るプロセスも「予測→観察→誤差修正」のループだと考えられるのです。
では共感はどうでしょうか?共感とは他者の感情をまるで自分のことのように感じる能力です。脳科学的には、誰かが痛みを感じているのを見たとき自分の脳の痛み関連領域も活動する、といった「ミラーニューロン」的な仕組みが知られています。自由エネルギー理論はこの現象にも洞察を与えます。つまり、自分の内部状態に関する予測モデルを使って、他者の内部状態をシミュレーションするのです。例えば、他人が指を切って「痛い!」と叫んだら、私たちの脳は過去の自分の痛みの経験に基づいて「それは相当痛いはずだ」という予測を立てます。その予測に沿って自分の身体の痛み回路が一部活性化し、まるで自分が痛みを受けたかのような反応が起きます。これが感情的な共感の神経基盤だと考えられます。このプロセスは、他者の状況を自分のモデルで「仮想的に体験」してみて、その予測された感覚を自分にフィードバックしているとも言えます。もちろん実際に完全に同じ痛みを感じるわけではありませんが、予測モデル上では一部共有しているため、思わず顔をしかめたり「大丈夫?」と心配したりする反応が出るのです。
社会的認知に関して興味深い視点は、二人以上の人間がお互いに予測し合うときに何が起こるかという点です。コミュニケーションの場面では、自分が相手を予測すると同時に相手も自分を予測しています。このような相互予測のループは、自由エネルギー原理では「マルコフ毛布」という概念で議論されることがあります。簡単に言えば、一人一人の脳はそれぞれ自分の境界(毛布)を持っており、直接他人の内部状態を見ることはできません。だからこそ、お互いの振る舞い(毛布を越えてやり取りされる信号)を通じて相手の中身を推測するしかないのです。この状況下で、お互いの予測がある程度一致するとスムーズなコミュニケーションが生まれ、予測が食い違うと誤解や衝突が生じます。会話が弾むときは、暗黙のうちに相手の言いたいことを先読みして「そうそう!」とうなずいたりできますが、行き違いがあると「え、そういう意味じゃないんだけど…」と驚くことになります。これも突き詰めれば、お互いが相手の内面モデルをどれだけ正確にシミュレートできているか(予測誤差が少ないか)にかかっていると言えるでしょう。
最新の研究では、このような相互作用の予測を数理的に扱う試みも始まっています。ただ、人と人との関係は非常に複雑で、単なる二者の予測ゲームでは語れない側面も多分にあります。そこで提唱されているのが「エナクティブ(能動的)な社会認知」という考え方です。これは、単に頭の中で相手をシミュレーションするだけでなく、実際の相互作用を通じてお互いの状態を共同で作り上げていくという見方です。自由エネルギー理論のオリジナルな枠組みでは各エージェント(主体)が個別に自己完結的な予測処理を行うように描かれますが、エナクティブな観点では人と人が関わることで新たな予測の整合性が生まれると考えます。例えば、ダンスやスポーツのペア演技では、二人が同時に動く中でお互いの予測をリアルタイムに更新し、一種の協調した「共同予測状態」を形成します。このような現象を理解するには、単独の脳ではなく相互に結合したシステムとして解析する必要があります。
共感に関しても、他者と自分の区別や境界がポイントになります。通常、共感する際にも「これは相手の痛みであって自分の痛みではない」という自己と他者の区別は維持されています。しかし境界が曖昧になると、自分まで辛くなりすぎてしまう共感疲労のような状態になったり、逆に相手の痛みに無頓着なサイコパシーでは境界が切り離されすぎていたりします。自由エネルギー理論では、このあたりも脳が自己モデルと他者モデルをどう統合・分離して予測しているかで説明しようとする動きがあります。
人工知能の分野でも、社会的認知のメカニズムに自由エネルギー原理を取り入れる試みが出てきました。たとえばロボットに共感能力を持たせるために、まず「痛み」の概念を自由エネルギーで定義し、それを他者に投影することでロボットが目の前の人間の苦痛を察知して助けに行く、といった研究があります。これはまだ初歩的なモデルですが、将来的には人間の脳に倣った「他者モデルの推論」をAIに実装し、より自然な対話や協調行動ができるエージェントを作ろうという方向性につながっています。言い換えれば、ロボットやAIが人間の意図を予測し、適切に応答できるようになるための計算論的手がかりとして自由エネルギー理論が注目されているのです。
以上、社会的認知や共感について、自由エネルギー理論がもたらす視点を見てきました。他者の心を読むことも結局は脳の予測と誤差修正の延長線上にある——そう捉えることで、人間関係におけるスムーズな理解も対人トラブルも、一貫した説明枠組みで扱えるかもしれません。もっとも、人間社会の現実は理論通りにはいかない複雑さがあり、まだまだ研究は始まったばかりです。それでも、**「脳は相手をどうモデル化し、どうズレを補正しているのか」**という問いを立てられるようになったこと自体、大きな進歩と言えるでしょう。今後の研究が、共感や社会的相互作用の脳内メカニズムをさらに解明していくことが期待されます。
未来展望: 今後の自由エネルギー理論の発展と応用
自由エネルギー理論は、この5年ほどで急速に広がりを見せ、多方面への応用が模索されています。最後に、この理論の未来展望についてカジュアルに考えてみましょう。
まず、脳科学・心理学の基礎理論としての発展です。自由エネルギー理論は「脳の大統一理論」とも称されるスケールの大きな枠組みですが、その分難解で抽象的でもあります。今後は、より具体的なモデルや実験によってこの理論の検証が進むでしょう。例えば脳波やfMRIなどを使って、実際に脳が予測誤差を最小化するような信号パターンを示すか、予測の精度を操作すると行動にどう影響するか、といった研究が考えられます。すでに簡単な知覚実験では、予測どおりに入力が来るとき脳活動が省エネになり、予測外の入力が来ると活動が増える(いわゆる予測誤差信号が現れる)ことが確認されています。今後さらに高次の認知や社会的状況でも、自由エネルギー理論が予測する現象が見られるか注目されています。
次に、人工知能やロボットへの応用です。人間のように環境に適応し学習できるAIを作るために、自由エネルギー原理に基づく能動的推論アルゴリズムが活かせるのではと期待されています。従来のAIは大量のデータを使ったディープラーニングや、決められた報酬に従う強化学習が主でした。しかし能動的推論のアプローチでは、エージェント自身が「何を目標とし、何を未知と感じているか」を内部で表現しながら行動を決めていきます。これは未知の状況での自主的な探索や、目標のオン・オフ切り替えなど、人間らしい柔軟性をもたらす可能性があります。実際の応用としては、自動運転車が予測にもとづいてリスクを察知したり、家庭用ロボットが主人の習慣を学習して先回りで行動したり、といったシナリオが考えられます。さらにSF的な展望を言えば、自我を持ったAI——自分自身の存在をモデリングし、他者(人間)の心も推測できるようなAI——を作る理論的足がかりとしても注目されています。自由エネルギー理論は「自己とは何か」を情報論的に定義する枠組みでもあるので、究極的には自己意識を持つ人工エージェントを設計できるかもしれません。
そして忘れてはならないのが、医学・臨床への応用です。すでに述べたように、自由エネルギー理論は精神疾患の理解に新たな光を当て始めています。今後、計算論的な診断モデルやシミュレーション患者などが開発されれば、個々の患者の脳内で何が起こっているのかを予測モデルとして可視化できるようになるかもしれません。例えば、ある患者さんの症状データをコンピュータ上の自由エネルギーモデルに当てはめてみたら、「この人の脳はごく些細な予測誤差にも過剰反応する設定になっているようだ」とか「報酬予測のアップデートが極端に遅いようだ」といった分析結果が得られる、といったイメージです。そうすれば、治療もそれに合わせて「予測の書き換え」を促す手法を重点的に行うとか、「誤差の重み付け」を調整する薬を組み合わせるとか、より理論に裏付けられた戦略が立てられるでしょう。また、脳以外の領域、例えば自律神経系や免疫系にも自由エネルギーの考え方を拡張する研究もあります。身体の恒常性維持(ホメオスタシス)も一種の予測制御だと考えれば、慢性痛や炎症性疾患などへの新たなアプローチが見つかるかもしれません。
さらに、哲学的・社会的な広がりにも触れておきましょう。自由エネルギー理論は「生命とは何か」「心とは何か」という根源的な問いにもアプローチしています。生物は秩序を保つために自由エネルギーをひたすら下げ続ける存在である——この視点は、生命現象を熱力学と情報理論の接点で捉え直すものです。ひょっとすると、進化の歴史や文化の発展も、自由エネルギー原理の枠組みで再解釈できるかもしれません。実際、「文化とは共同体が予測モデルを共有して自由エネルギーを低減する仕組みである」というような大胆な仮説も議論されています。例えば、同じ文化を共有する集団では、共通の言語や習慣によりお互いの行動を予測しやすくなります。これによってコミュニケーション時の「驚き」(誤解や想定外の行動)が減り、円滑な社会生活が営めます。逆に、異なる文化同士だと暗黙の前提が共有されていないため、当初は相手の行動が読めず驚きの連続となることがあります。それでも相互に相手の文化的なパターンを学ぶことで、新たな予測モデルが形成され、次第に驚きが減っていきます。つまり国際交流で生じるカルチャーショックも、予測モデルの不一致から生まれる一時的な自由エネルギーの増大と捉えることができ、やがて人が慣れていく過程はモデルのアップデートと見なせるのです。また、自由エネルギー理論が示す脳の働き方は、「人間の自由意志とは何か」「私たちはどこまで環境に規定されているのか」といった哲学的テーマにも新しい示唆を与えています。脳は常に無意識に予測し修正している——だとすれば、「自分で考えて決めた」と思う行為も、実は脳内モデルの必然的な更新プロセスの産物かもしれない、などなど。こうした議論はまだ抽象的ですが、科学と哲学の架け橋として自由エネルギー理論が機能しているのは確かでしょう。
もちろん、この理論には課題も残されています。あまりに包括的であるがゆえに、「どんな現象でも後付けで説明できてしまうのではないか」という批判や、実験による直接的な検証の難しさが指摘されています。研究者たちはそれを踏まえ、理論から導かれる具体的な予測を立てて実証したり、数理モデルの妥当性をシミュレーションで検証したりといったアプローチを進めています。自由エネルギー理論が真に脳の働きを捉えたものなのか、それとも単なる数学的なお飾りに過ぎないのか——その答えもまた、今後の研究によって明らかにされていくでしょう。
まとめると、自由エネルギー理論は今まさに発展途上の包括理論であり、その適用範囲は脳内のニューロンレベルから人間社会のマクロレベルまで多岐にわたっています。今後の研究で理論の精緻化と実証が進めば、「脳は予測マシンである」という考え方が今以上に当たり前の知識になるかもしれません。私たちが日常で感じる不思議——なぜ人は感情を持つのか、なぜ探究心があるのか、なぜ心を病むのか、なぜ他人と通じ合えるのか——その一つ一つに、予測と自由エネルギーという観点から明快な答えが返ってくる未来が来るかもしれません。これからの自由エネルギー理論の展開に、ぜひ注目してみてください。
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