『勿忘草の咲く町で』を読んで

夏川草介『勿忘草の咲く町で』を読んだ。夏川草介と言えば『神様のカルテ』が代表作である。神様のカルテは信州松本を舞台としていて、主人公は医者の栗原一止である。

『勿忘草の咲く町で』も同じく信州の咲く町で』を読んだ。夏川草介と言えば『神様のカルテ』が代表作である。神様のカルテは信州松本を舞台としていて、主人公は医者の栗原一止である。


『勿忘草の咲く町で』
『勿忘草の咲く町で』も同じく信州を舞台としている。安曇野を舞台としているのもの、医者と看護師が主人公であり、神様のカルテと雰囲気は似ている。
神様のカルテと異なる点は、医者と看護師のそれぞれの視点からの物語が進んでいく形式であることと、「人口減少による医療の限界」みたいなものを書いている点である。

前者の医者と看護師の視点というのも、看護師は女性視点であり、神様のカルテとは大きく趣が違う。また、1連の時系列が異なる視点から描かれつつも進んでいくというのも、神様のカルテとは雰囲気が異なるポイントである。

4話に関すること
ただ、個人的に最も刺さるのは、第4話である。4話では終盤に、家族の意思を、覆すようなシーンがある。覆すというか、描かれ方としては「歪な医療を自然の流れに戻す」ようなイメージである。

1組は、患者の家族は「あらゆる延命治療をしてくれればそれでいい。」というが、家族は患者自身との接点はほぼなく、医者に丸投げ状態である。患者自身の状態についてはほぼ関心が無い。「根が切れた」状態である。
主人公は根が切れてしまっているなら、延命治療をし過ぎず看取りの提案をする。家族の考えも間違っていないように思うし、主人公の考えも間違っていないように思う。ただ、主人公はより説得力を持って語る。

もう1組は、手術を拒む95歳の患者とそれを尊重する家族である。こちらの患者は、もう十分生きたので手術は不要という。状況的には手術がある方が良いと医者は判断しているが、患者はそれを断る。ただ、それを尊重し大切に扱う家族がいる。いうなれば「根が切れていない」状況である。
主人公は結果として、手術の話をし、説得するに至る。

「根が切れる」
この「根が切れた」という表現は実際に作中に出てくる。前半には宮城→東京→信州と移ってきた看護師に対して「根無し草」という表現が用いられている。この看護師も、自身の地元に帰らざるをえないことを「根無し草だと思っていたけど、根っこはあったみたい」と表現している。

医療とか、働くとかの現場においてこの「根が切れる」という比喩で表される芳醇さがとても心地よい。ガイドラインや長く生きるべきという要素とまた違う独特の美しさをはらんだ価値観に見える。

指導医の三島先生
また、4話では指導医が死について語る場面がある。その場面では「いかに死なせるか」という問題を抱えていることが指摘されている。
実際、今社会的に少なくとも人口はシュリンクしている状況である。現代で経験してこなかった状況が生じている。広げる・増やすことの手段はさんざん講じられてきたのだろうが、減少していく方法はあまり語られていないように思う。

その撤退戦略を描く際に、一つ指標になるのが「根が切れているか」のような価値観なのかもしれない。

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