教育とか学習とかのメモ

教育か学習かみたいな話。とちょっと最近思ってることのメモ

政策としては教育よりも学習(生涯学習)に力を置く方針であるように思う。学習は先鞭がないため、かなり自己責任の範疇が大きくなる。「面倒を見る」ような要素は少なくなる。

ただ、学習はなんらかの評価によって方向づく、評価をする場面自体はたぶん学習しているのみでは訪れない。市場に出すことが評価をすることにつながっているように思う。

価値判断
完全に思いつきレベルの話で裏取りをしていないが、貨幣が出来たことによって、人はモノそれぞれを価値判断する必要がなくなったのではないか。貨幣の評価を価値判断と考えることができるようになり、"価値判断の民主化"みたいなことが起きている面があるのかもしれない。
ただ、それはあくまでも価値判断っぽい何かでしかなくて、希少性と需要量ばかりに大きく左右される。それ以外の要素を見ないで数値化できてしまう。

分かりにくい点でも価値判断をできるようにならねばならない。

初見殺しに殺されない
最強の戦略の1つについて。先般「初見殺し」はその1つなのではないか?というものを観た。確かに、初見殺しで一定の足切りというか、敵を減らすことは可能なのだろう。むろん、初見殺しは情報によって回避できる。情報が中途半端な状態ではかなり有効な施策である。
教育の価値として、初見殺しを防ぐということもあるのだろう。
『ゴブリンスレイヤー』を読んでいても、いわゆる”足がかり”扱いされるゴブリンでさえ、きちんとした情報を持っていないと打破しきれない。

この辺が伝達内容の選択基準になるのであろう。

学習の先達
学習するうえでは、自分で評価できる必要がある。評価できるほかに先達を見つけられると良い。宇野常寛によると、現在のSNSは面白い「人」にフォーカスしたものになっているという。その意味では、先達を見つけるのは難しいことではない、、のだろう。

現在の社会の少なくとも学生の期間は世代間を超える付き合いは少なく感じる。そこが混ざると良いと思う。→コミュニティとかはその1つか。学習を支援する時には、この基準も持っていたい。

学習って研究とどう違うか。未知の領域に進むかどうか?

社会の要素
内田樹の研究室で「コロナ後の世界」という内容のものがあった。その中で、民主主義は国民に様々なものを求め、大人になることを求める。というような話があった。
ちょっと穿った読み方をしているかもしれないが、大人になるには教育的なアプローチが有用であり、民主主義と教育はフラクタルな構造に近しいのではないか。ひいては、教育最適な動きを目指すと民主主義最適になるのではないかと妄想する。

この教育はいわゆる学校教育的な話ばかりでなく、あらゆる世代への教育的な営みの話をイメージしている。

(書いてて、今、社会に対する絶望感みたいなものが大きくて、それを払しょくするためにやや都合よく解釈している要素が強い面もある。)

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