コウメ太夫氏の「オリンピック開会式演出」について
皆さんこんにちは、コウ・メダユーです。
さて、コウメ太夫氏が先日このようなツイートをしました。
一見したところでは、意味不明としか言いようが無かったのですが、ある2つのキーワードを元にこのツイートを読み解くとすんなりと読み解くことができるのです。
そのキーワードは、「偽王(モック・キング」と「キャンセルカルチャー」です。後に説明します。
・ツイートの解読
まず、「コウメ解任」の部分ですが、これはそのままコウメ太夫氏がオリンピックのなんらかの役目から解任されることを示しています。
小山田圭吾氏や、ラーメンズの小林賢太郎氏らが過去の不適切な発言などから解任・辞任したことが記憶に新しいと思います。
このように過去の悪事や、過去の発言などから「公的に呼び出された人物が社会的な仲間集団や職業的な仲間集団から追放されること」を、「キャンセル・カルチャー」といいます。このワードはコウメ氏の開会式演出を読み解くにあたって重要になります。
次に「全員でチクショウ叫ぶ」ですが、いったい誰が叫んでいるのか判然としません。我々日本国民たちかもしれないですし、オリンピックに参加する選手たちかもしれません。とにかく、多くの人々がコウメ氏の解任を嘆いていることだけが確かです。
・「偽・コウメ太夫」誕生
さて、嘆いた人々が、「白塗りメイク」をします。これはまさしく、「偽・コウメ太夫」たちの誕生と言ってよいのではないのでしょうか。
そして「チクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクショウ!。」の部分ですが、「偽・コウメ太夫」たちが「チクショウ」を叫び、彼らの「チクショウ」がカエルの合唱のように鳴り響いている様が目に浮かんできます。
以下、さまざまに意味不明な文章が続いていきますが、「偽・コウメ太夫」たちは最後に「解任」されてしまいます。
一体なぜ解任されてしまうのでしょうか。なぜ、「辞任」ではなく、「解任」なのでしょうか。
その謎を解くカギは、「偽王(モック・キング)」です。
「偽王」としての「偽・コウメ太夫」
「偽王(モック・キング)」とは何でしょうか。以下に、その概要を引用してみようかと思います。
古代ローマでは農耕神サトゥルヌスを記念してサトゥルナリア祭が毎年12月に催された。そこでは偽王(モック・キングmock king)が選ばれ、1年の終わりに日常的規範からの逸脱と逆転をほしいままにする一時的支配権をゆだねられ、そして祭りの終わりには共同体の穢(けが)れを担って殺害されるスケープゴートとしての役割を果たした。
日本大百科全書(ニッポニカ)「道化」の解説
「偽王」の儀礼においては、奴隷が「偽王」として祭り上げられます。その間、「偽王」は、一時的な支配権を手にし、贅沢をすることができるのですが、最後には穢れを担って殺害されてしまいます。
この儀礼は山口昌夫らが言及している通り、祭式の混沌性、その中での死と再生や、「象徴の逆転」などと深く結びついています。これについても少々後に言及しますが、本論では、最後の「殺害」を、「解任」とを重ね合わせた解釈を主に行っていきます。
では、「偽王」としての、「偽・コウメ太夫」たちはなにをしたのでしょうか。
まず、「ウニ20皿」を食べます。
以前上記のツイートを見た時は、解釈のしようがないと思いましたが、実は、この「オリンピック開幕式演出ツイート」への伏線だったのです。
つまり、「偽王=偽・コウメ太夫」たちは、その地位を利用して贅沢をするのです。「スシロ~でウニ20皿」が贅沢かと言われると怪しいですが、少なくともコウメ氏は「大満足でした~」と述べているので、「偽・コウメ太夫」たちにとっても相応の贅沢なのでしょう。
問題は、次の「ヴラックホ~ル」です。
・「ヴラックホ~ル」問題
「ヴラックホ~ル出現」とは、何を指すのでしょうか。
上記のツイートを見てください。「ヴラックホ~ル」は小梅氏に死をもたらしています。
しかし...
このツイートではむしろ、「ヴラックホ~ル」を食しています。ここでの「ヴラックホ~ル」は、「生」を示しています。というのも、食は、則ち「生」の方向性を向いているからです。「食べる」ことによって我々は「生きる」わけです。
つまり、「ヴラックホ~ル」は、コウメ氏にとって、「生と死の両義性」を持った存在だと言えます。実は、この「両義性」は、祝祭空間に深く結びついています。
「オリンピック・パラリンピック」という祝祭空間の現出は、混沌とした創造性を持ちます。バフチンのいうような、倒錯したカーニバル空間の現出が、コウメ氏の「ヴラックホ~ル出現」に象徴されているのです。
・「税金高い」
この「税金高い」は、支配権を持った「偽・コウメ太夫」たちによる現行制度に対する着手を示しているのでしょう。
・「コウメ解任」→「成功」
この「解任」は「偽王」の「殺害」とイコールとして読んでよいでしょう。「辞任」では、自ら辞めるようなニュアンスが入ってしまうため、「殺害」の読み替えとして、「解任」の言葉を選んでいるのだと思われます。
さて、「偽王」の儀礼において、最後に「偽王」が穢れを担って殺害されてしまうことを思い出してください。
小梅氏はおそらく、「キャンセルカルチャー」において「解任」された人々の「穢れ」と、「偽王」が担わされた「穢れ」を重ね合わせた上で、この開幕式の演出を考えたのでしょう。
また、「偽・コウメ太夫」が一人でなく、大勢いることも重要です。 「偽・コウメ太夫」が一人であったら、それは幾度か起きた「キャンセル・カルチャー」の再生産にしかなりません。
仮に、「偽・コウメ太夫」たちが、「国民全員」だったとしましょう。そうすると、「国民全員」が「穢れ」を持った存在として”殺害”される物語だと読むことが可能です。
多くの人々が、公的な場で支配権を持ったとしても、たいていの場合、「穢れ」が露呈してしまうのです。小梅氏は、我々を「穢れ」を持つ存在として敢えて描いています。
つまり、「偽王」の儀礼を換骨奪胎した小梅氏は、我々日本国民を「偽・コウメ太夫」=穢れた存在として描いたのです。
そして、「穢れ」を持った我々日本国民全員を、象徴的に殺害(解任)し、「オリンピズム」に則した新たな日本国民たちを生み出そうとしたのかもしれません。
小梅氏のオリンピック開会式演出は、「再生」の物語だったのです。
【参考文献】
山口昌夫『道化の民族学』(岩波現代文庫、2007)
オリンピック憲章 Olympic Charter 2020年版・英和対訳
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