風蝉

 風の中に、蝉の声がした。
 昼下がりの公園。残暑の日差しは容赦なく僕らの上に照りつけてくるが、木陰に入ると僅かに涼しさを帯びた風が吹き過ぎ、かいたばかりの汗を冷ましていく。
 そんな中に、微かに聞こえた声。
「あ」
 思わず立ち止まる。結菜は首を傾げて僕の顔を覗き込んだ。
「何? どうかした?」
「いや。聞こえなかった? 蝉」
「蝉?」
 しばらく耳を澄まし、首を振る。
「わかんないや。ひぐらし?」
「いや、あれは……」
 僕は思い出す。真夏の間はあれほどうるさいと感じていた、ジージーという鳴き声。
「アブラゼミだったと思う。多分」
「アブラゼミ? へえ、もう九月なのにね」
「ね。まだ鳴くんだなって」
「ふうぜん、ってやつだね」
「風前?」
 僕は聞き返す。
「ああ、もう終わり際だから? 風前の灯、ってこと?」
「違う違う」
 結菜は微かに笑って首を振った。
「風に蝉って書いて、風蝉。秋風の中聞こえてくる、名残の蝉、みたいな」
「へえ」
 僕は感心して言う。
「そんな言葉があるんだ」
「うん。一応、立秋過ぎたらもう風蝉ってことになるみたいだけど」
「立秋っていつだっけ」
「八月の……七日? ひと月くらい前だね」
「えー。まだ暑い盛りじゃん。いや、今も十分暑いけどさ」
「だよね。八月に"秋風"って言われてもピンとこないよね」
 結菜は頷き、思い出したように付け足す。
「それでも、もう九月だしね。十五夜も近いでしょ」
「そうだっけ」
「確か、来週……再来週? それくらい」
「中秋の名月、かあ」
 俺はぼんやりと言う。
「実感湧かないけどなあ」
「なんて言ってると、あっという間に秋も過ぎて冬だよ。結婚式も、もうすぐ」
「それもなあ、実感湧かないよなあ」
「こら!」
 結菜の声に本気の怒りが滲む。僕は慌てて首を振る。
「いや、違う、楽しみにしてるよ、ただ……本当に、結婚するんだなって。近くなって、かえってなんだか現実感が遠のいたっていうか」
 結菜はしばらく僕を睨んでいたが、やがてふっとため息をついた。
「まあね、わかんなくもないけど。付き合い長いし、かえってね」
「だろ? なんだか、今までと同じように、ずっと続いていくような気がしててさ」
「変わらないのかもよ。結婚しても」
「そうなのかな」
「わかんないけど」
 そう言った結菜が、ふと首を傾げた。続いて、僕も。
「あ」
「聞こえた、結菜も?」
「うん。ほんとに蝉だ」
「ね」
 僕らはそのまま二人で、遠くから聞こえる名残の蝉に耳を傾け続けた。

 いつか、そうして、誰かと二人で、蝉の声に耳を傾けた日があったような気がした。
 遠く、あまりに朧な記憶。
 あれは、誰だったろうか。
 あれは……聖也?
 そうだ、聖也だ。
 小学四年の春、転校してきた聖也。小学校の教室で、いつも一人だった聖也。なのに全然平気な顔をして、ただぼんやりと窓の外を眺めていた聖也。
 薄曇りの、スカイグレーの空を、ただ超然と見上げる聖也。

 夏休みが始まって間もなくの、ある日のこと。
 朝から遠くの山のふもとまで出かけた挙句、一緒に行った友達とはぐれてしまった僕は、ベソをかきながら、家があるとおぼしい方角にむかって、トボトボと歩いていた。
 日は天頂を過ぎて傾き始め、腹は減り、心細く、惨めな気持ちだった。
「おい」
 突然声をかけられて、僕は顔を上げた。
 聖也がいた。聖也は、フレームの曲がったボロボロの自転車に跨り、足を目一杯伸ばして停まって、僕を見ていた。
「どうしたんだよ。こんなとこで、一人で」
「別に。秋嶋君こそどうしたのさ。その自転車、君の?」
 聖也は一瞬怯んだような顔をした。僕が自分の名前を知っていたのが意外だったのか、それとも自転車のことを何か咎められたと……盗品ではないかと仄めかされたとでも思ったのだろうか。
「拾ったんだよ」
 聖也は言った。
「そこの山のとこでさ。どう見ても捨ててあったんだし、いいだろ」
「別に、そんなつもりじゃ……」
 僕は口篭った。
 聖也は舌打ちを一つした。そしておもむろに自転車を降りると、ハンドルを押して歩き出した。ぼんやり後ろ姿を眺める僕に、聖也は振り返って、言った。
「どうしたんだよ。行こうぜ」
「え?」
「帰るんだろ」
「帰るけど」
「学校の方だろ」
「うん、前田商店の近く」
「じゃこっちだ。そっちいくと駅だぞ」
「そうなの?」
 僕は驚いて言った。まさか方角まで間違えていたとは。駅、とは言っても、家からならバスでしばらく行ったところだ。歩いたらどれくらいかかるのか想像もつかない。
「さ、いくぞ」
 ひそかに安堵する僕には気が付かないように、聖也は自転車を押して歩き出した。
「お前、同じクラスだよな。名前……吉田だっけ」
「吉岡だよ」
「そうか。一人で来たのか」
「ううん。根岸くんとか、前野くんとかと一緒だったんだけど……」
「ああ、いっつも群れてるあいつらな」
 僕はぞくりとした。怖かったのではない。「群れてる」という大人びた言葉に、罪悪感にも似た感覚が背中を走り抜けたのだ。
 聖也は続けて言った。
「わざとじゃないのか? あいつら、きっと面白がってお前だけ置き去りにしたんだよ」
「そんな! そんなこと……」
 ないよ、と言いかけた言葉が眩しい日差しの中に溶けていく。
 心当たりはあった。なんとか仲間に入れてもらおうと彼らの跡をついて歩く僕を、皆が小馬鹿にし、嘲笑い、しばしばからかいの対象にしていることに、僕だって気がついていないわけじゃなかった。
 それでも、仲間はずれになるのは怖かった。笑われる役なら笑われる役でもいい、そこに自分の居場所があるなら。
 僕はずっと、そう思ってきたのだ。
「お前、もうやめたら? あいつらと一緒にいるの」
 聖也は前を見て歩きながら言う。
「お前、いっつもさ、楽しそうに見えないんだよ」
「そんなこと……だって……」
 僕は言い淀む。その先を待たず、聖也は言った。
「気が合わない奴といっしょにいるくらいならさ、一人の方がいいだろ」
 僕はハッとした。
 気がついたのだ。
 僕がずっと、聖也を見ていた理由。
 教室の隅の席で、一人で窓の外を見る聖也が、気になって仕方がなかった理由。
 僕は、羨ましかったのだ。
 憧れていた、と言ってもいい。
 僕も、あんなふうにいられたら。
 友達に合わせて、そんなに好きでもないゲームをして、そんなに好きでもないアニメを見て、皆が笑うところで同じように笑ったりせずに、一人きりで空を見上げていられたら。
 そうだ、僕は……僕も、本当は、そんなふうでいたかったのだ。
 そうしていることが当たり前のように、ただ黙って、一人きりで座っていたかった。
 それができない自分に、僕は歯痒さを感じ、そしてその分、聖也に憧れたのだ。
 僕は……
「そうか。うん、そうだね」
 僕は呟くように言った。ふと、聖也が顔をこちらに向けた。そこには少しの驚きと、へえ、と面白がるような表情が浮かんでいた。
「お前、名前、なんだっけ」
「え? だから、吉岡」
「じゃなくて。下の名前」
「……直斗」
「直斗、か。よし。俺は、聖也」
「聖也……くん?」
「呼び捨てでいいよ、直斗」

 一人でいい、そう言い合った僕たちなのに、その夏、僕らはずいぶん一緒に遊んだ。虫取りに行き、買い食いをし、例の歪んだ自転車を二人乗りして乗り回し、転んで一緒に膝小僧を擦りむいた。
 一緒に夕立に降られ、雹にあたり、悲鳴を上げながら爆笑した。
 聖也はそれまでの友達とは全然違っていた。ギャグが面白くなければ笑わなくても良かったし、言うことがなければ黙っていても良かった。
 一度、あれも夕立の後だっただろうか。一度静まり返った森に、再び蝉の声が響き始め、空間を満たしていくのを、二人とも何も言わずに聞いていたことがあった。
 どこか気だるい湿った大気の匂いと、遠いとも近いともつかない蝉の声。さっきまでの黒い雲が嘘みたいな真っ青な空。
 原風景、そんなふうに言えるものが僕にもあるとしたら、それはあの景色であるような気がする。
 そして、その夏の風景とともに、聖也は僕の前から、姿を消してしまったのだ。

「どうしたの?」
 結菜が不思議そうに僕を見ている。
 どれくらい経ったのだろう。いつのまにか、僕はすっかり思い出の中に沈潜していたようだ。
「いや、なんでもないよ」
 僕は言った。
「ただちょっと、昔のこと思い出してた」
「昔の女?」
「違うよ」
 僕は笑う。
「友達。小学校の頃の」
「ふうん」
 納得してくれたのかどうなのか、結菜は一つ相槌を打ち、そして不意に言う。
「聞こえなくなったね。蝉の声」
「あ、うん。そうだね」
 僕も頷く。
 気がつくと空にはうっすらと雲がかかり始め、降り注ぐ日差しを和らげている。真夏の積乱雲やゲリラ豪雨を警戒させる真っ黒な雲とは明らかに違う、筆で掃いたような淡い雲が、背後の青を透かしている。
 スカイグレー。あの日、聖也が見ていた窓の外の色。
 涼やかな風が吹きすぎる。蝉の声はもう聞こえない。
 夏が終わる。あの遠い夏の日も、また。
 僕はまだじっとりと汗ばんだ結菜の手を取って、木立の中を、歩いていく。
 

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