三つの願い
「まったくしけてやがる」
男は言った。
小さな家の中。男の傍の床には、一人の老婆が手足を縛られて転がされている。
「こういうとこに一人で住んでるババアこそ、しこたま溜め込んでるもんなんだが……当てが外れたか」
言いながら、手のひらの上で卵型の物体を転がす。
「これも宝玉ってわけじゃなさそうだしなあ」
何でできているかも定かではない、つるんとした薄青い表面は、見ようによっては美しくはあるが、宝石や貴金属のような華やかな輝きとは縁遠い。
「ま、適当に尾鰭つけて売ればそれなりの値はつくかな。霊験あらたかな幸運のお守り、とかなんとか」
その時、じっと転がされるままになっていた老婆が、不意に声を上げた。
「やめときな」
男はギョッとしたように老婆を見た。押し入られたのに気がついた時に「ヒッ!」と短い悲鳴をあげ、縛り上げるときに低く呻いた以外には、声というものを発することのなかった老婆が、突然意味のあることを喋ったのに驚いたのだ。
街から離れた、森の中の小さな小屋だ。多少声を上げられても構わない、そう思って猿轡を噛ませたりはしなかったのだが、いずれにせよほとんど声を上げない老婆を、男は喋れないものであるかのように感じ始めていたのだ。
老婆は続けた。
「売るなんて、もったいない」
「もったいない? 何言ってやがる」
男は去勢を張るように声を荒げた。
「少しでも金になるもんなら、しねえでしまっておく方がもったいねえだろ」
「あんた、聞いたことはないかい。魔法の卵のこと」
「魔法の卵?」
鸚鵡返しに聞き返す。
「ああ、そうさ。道を極めた魔法使いがその持てる技の全てを注ぎ込んで最後に作り出すマジック・アイテム。持ち主のどんな望みでも三つ叶える、究極の願望機」
「ああ、聞いたことはあるな」
男は頷いた。
「そんな大層な由来は知らねえが、人の望みを叶える卵の話は、確かに時々耳に入ってくる。こいつがそれだって言うのか?」
「その一つさね」
「おいおい、マジかよ」
男は卵を持ち上げ、しげしげと眺めた。かと思うとかぶりをふり、腕を下ろした。
「いやいや、たとえその話が本当だとしても、使う気にはならねえな。ロクな話を聞かねえからな」
「おやおや、いったいどんな話を聞いたって言うんだい」
「詳しくは知らねえが、何気なく口に出したことが次々叶って、最後の願いはその後始末をするしかなくなった、とか」
「そりゃ紛い物だね。本物は、心からの願いでなきゃ叶ったりしないよ」
「死んだ家族と会いたいと願ったら、恐ろしいアンデッドになってやってきたとか」
「作った魔法使いの力量が足りないと、そういうこともあるね」
「それに、金と女と権力を願った奴は、見たこともない異国の紙幣と、酷い醜女をあてがわれ、落ちぶれた貴族の地位を引き継いで、たしかに召使いだのなんだの言うことを聞く奴には事欠かねえが、そいつらを食わせていくのと領地を営むので大変な目に遭ってる、って聞いたな」
「願いの形が曖昧すぎたんだろうね。大丈夫、その卵なら、そんなことはおこりゃしないよ」
「やけに自信たっぷりに言うじゃねえか」
男は眉を顰める。老婆はクククと低く笑った。
「そりゃ、あたしが作ったんだからね。その卵のことはあたしが一番よく知ってるのさ」
「なんだって? 婆さん、魔法使いか!?」
男は恐怖を滲ませた目で老婆を見て、二、三歩後退った。
老婆はもう一度笑う。
「心配しなくたって、もうなんの力も残っちゃいないよ。言っただろ、”卵”は魔法使いが最後に全ての力を注ぎ込んで作るんだ。それを作った後のあたしは抜け殻さ。命だって、そう長くはない」
「そう……なのか?」
男は安堵のため息をつく。
「じゃあ、この卵なら大丈夫だってのは……」
「あたしは元々、人の心を読む魔法が得意だった。本人も気づいていない、心の奥底の欲望や恐れまで、見ることができた。だからね、大きな仕事はそうそうすることがなかったが、街にいた頃にゃ、占い師としてそれなりに稼いだりもしたんだよ。未来予知はそれほど得意じゃなかったがね、占いをしにくる人たちが求めてるのは、ほとんどが、未来じゃなく、どうすれば自分が満足できるかを知ることなんだ。正しい選択肢より納得のいく選択肢が知りたいのさ」
「それとこれとどう言う関係が」
「だからね、そんなあたしが作ったその卵にも、同じ性質が宿っているのさ。その卵には、あんたが口に出した願いの本質を掴み取って叶える力がある。だから、本気の、大きな願い以外は叶わないし、異国の金が出てきたり、望んでもいないような醜い女をあてがわれるようなことも、決して起こらないだろうよ」
「じゃあ……」
「ああ、願うがいいさ。あたしの言ってることが嘘なら、何も起こらないし、願いが叶うならしめたもんだろ?」
「いや待て、もしあんたが、俺を罠にかけるつもりなら」
「なんだい、案外意気地がないんだね」
老婆は嘲笑った。
「ま、そりゃそうか。強盗に入るにも、こんなババアのいる家しか狙えないようじゃね」
「なっ」
男は気色ばんだ。
「わかったよ、やってやろうじゃねえか。これでも盗賊家業の前は博打打ちとして鳴らしてたんだ。引き下がっちゃ男が廃るぜ」
「ほほう。で、何を願うんだね」
「もちろん」
男は卵を掲げたかと思うと大きく息を吸い、そして言った。
「金と女と権力だ!」
卵が眩い輝きを放った。
気がついた時、男は暖かな温もりの中にいた。柔らかく、いいにおいのするものに包まれて。
(な、なんだこりゃ)
しゃべろうとして、男は自分の口が、意味のない音声を発するのを聞いた。身動きしようとしても思うにまかせない。自分の体がやけにふわふわして頼りなく感じられる。
「あら、起きたのね」
女の声は身体中に響くようだった。
「お腹は空いてない?」
優しく、慈愛と安らぎに満ちた声。
やがて、目の前に巨大な乳房が現れ、自らの頭がそこに押し付けられる。
かつて感じたような欲情のたぎりはまったくなかった。それでも男は気がつくとその鴇色の先端に吸い付いていた。口は勝手に動き、やがて口内には甘美な液体が流れ込んできた。
(俺は……なんで、こんな……)
そんな疑問も、やがて不定形の感情と本能、そしてこの上ない満ち足りた気持ちの中に、溶けていった。
老婆は身じろぎをし、やがて器用に腕を縛った縄を解くと、男の消えた後に転がる卵を拾い上げ、じっと見つめてつぶやいた。
「ふむ。赤子の頃に戻ったか。金の本質は生活の保証とあらゆる欲望の充足。理想の女は常に母親の面影を宿す。そして赤子の、全てが思い通りになる全能感は、権力の本質。まったく、理にかなっておる」
老婆は満足げに低く笑った。