「キリエのうた」感想

昨年人から勧められ、観ようと思ったものの、いけそうな時にはちょうどいい時間でやってるシアターが近くになく、行きそびれたままになっていた「キリエのうた」。

サブスクに上がるのを待ってたんですが、やっと来たかと思ったらU-NEXT限定で。わい、U-NEXTは入ってないんだよねえ……初月無料も以前何かの時にやっちゃってるからもうできないし。

と思ってたら、カミさんが観たいものがあって入会したってことで、他にレンタル料もかかったんですが、ついに観ました。

正直、巷で非常に評価の高いアイナ・ジ・エンドの歌声、自分にはちょっと合わないなって思ってたんですが、冒頭の「さよなら」から、もう完全に持ってかれて。今までの自分の見る目(聴く耳)のなさを反省する羽目に。他の1シーン1シーン、3時間全てにわたってアイナの歌声、素晴らしかったです。この声がないと成り立たない映画だと思いました。

単にうまいとか下手だとかそういうことじゃない。喋ろうとすると声が出ないキリエの、ギリギリのところで発せられる、伝えずにいられないものとしての「声」、一度は全ての絆を絶たれていたキリエが、誰かと繋がろうとして必死に伸ばした指先のような、そんな切実さをも感じる歌が、この映画には溢れていました。

人類の進化史において、「歌」は「言葉」よりも先にあった可能性が、脳の研究から示唆されているそうです。単に「歌う時に使っている脳は、言語能力を司る脳より以前に獲得されていたらしい」という話で、実際に類人猿がラララと歌っていたという証拠があるわけではないですが、人が歌うのは、喋ることよりも本能に根差した行動なのかもしれない、そんな想いを新たにしました。

一方で、「女を使わずに」生きる方法を求めて上京したイッコ/真緒里が、結局そこから逃れきれず、それでも搾取されまいと必死で抗った結果に違いない運命にも心を抉られました。現実に話題になった事件を思わせるところもありますが、安易に重ねるべきではないと断った上で思うのは、じゃあ彼女には他にどうなる道があったんだろうということです。後からなら、外からならなんとだって言えますが、実際にああいう環境と成り行きの中にいて、10代の真緒里に選択できることなど、そう多くはなかったんじゃないか、むしろ多くの加害や搾取に晒された上でああなってしまったんじゃないか、そんな事を考えました。罪は罪として裁かれるべき、大人なんだからなんでも周りのせいにせず責任を取るべき、それは私もそう思いますが、どうしても、それだけでは割り切れないもの残ってしまいます。

秩序の側にいることができなかった人々の物語であるが故に、官憲は、あからさまな悪役ではないものの「妨害者」的な役割を持って描かれているようなところがあり、そこに違和感や不快感を覚える人もいるかもしれません。

けれども、夏彦の無力感と、その底にあるのがかつての身勝手さと怯懦であるのを思う時、秩序の網の目からこぼれてしまった人の生き方といったことを、私は考えずにいられませんでした。

キリエの歌声は、そこにひとつのか細い、けれども確かな希望の橋をかけるものであるように感じました。

つか、これ書くためにWikipedia参照してたら、原作小説には色々穴を埋める人物が出てくるようで、読むとまた少し印象変わるのかも。読むか(ここで積読の山を見つめる)

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