トークの日
その招待状が届いたのは、梅雨が明けたはずの日。
梅雨明け宣言が出たと言うのに、空梅雨だった昨日までとは対照的に降り始めた大雨に、何のこっちゃと言う思いを抑えきれなかった、まさにその日、仕事から帰ると、ポストに一通の封書が届いていたのだ。
「なんだこれ」
ゴージャスな飾り模様の入った封筒。紙も厚く、持ち重りがする。
いつものようにバリバリ手で開けてしまうことが憚られ、わざわざハサミを出して封を切った。
中からは一枚のカードが出てきた。封筒と同じ模様で縁取りされたその真ん中に、たった一言だけ、
「来る七月十九日、あなたをトークの日に招待いたします」
と書かれている。
「七月十九日って……今日じゃん」
呟いた瞬間、部屋の風景がぐにゃりと歪んだ。
屋根を叩く雨の音も遠くなり、俺は激しい目眩に見舞われた。
と。
「な……なんだあ?」
眩しさに目を細める。
広い……スタジアムのような場所。
たくさんの観客席に囲まれた、アリーナの端の方だ。俺の他にも、数人の男女がいる。
『さあ、ついに出揃った四名のトーカーたち!』
スピーカーを通しているらしい大きな声が響き渡る。
『では思う存分、語っていただきましょう! トップバッターは、荒川区在住、山上宗太郎さんだ!』
「え、なに、なに?」
俺が呟いた声をどよもす歓声が打ち消す。周囲にいた男の一人が、中央近くに据えられた演壇に向かって進み出て行くのが見えた。俺はわけもわからずあたりを見回す。
「あの……池田耕作さんですよね」
ふと、後ろから声をかけられて俺は振り向いた。
古風な七三分けにレトロなメガネ、スーツのスタイルもどこかしら古臭い、一人の男がそこに立っていた。
「なんだあんた、いったいこれはどういう」
「はい、あなただけ、ちょっと到着が遅れたので……招待状、お持ちですよね」
「これのこと?」
俺はあのカードを掲げて見せる。男は満足げに頷いた。
「そう、それです。それをですね、こう、額に当てていただけますか」
「え?」
「当てていただければわかりますから」
「……こうか?」
男がするジェスチャーを真似るようにカードを額に当てる。と、途端に全てが理解された。
毎月十九日はトークの日。この日、全国からランダムに選ばれた「トーカー」がこのスタジアムに集められ、オーディエンスに向かって自分の理想を熱く語る。オーディエンスに最も支持されたトーカーは、その理想を実現する権利を得る。
オーディエンスが何者なのか、運営母体はなんなのか、そこのところはわからないまま、「そういうものだ」と力技のように納得させられてしまう。
知識が、その納得込みで、脳にインストールされたような感覚だ。
見ると一人目のトーカーが熱く何事かを語っている。その起伏やテンポに合わせて、スタジアムはどよめき、息を吐き、喝采する。聴衆の反応からすると、このトーカー、なかなかの巧者のようだ。
「俺に、できるのか……?」
人前で話す機会など日常生活でほとんどない。小学校の頃から何度かあったそんな機会も、ただただその時間をやり過ごすためだけに語っていて、聴衆のことなど考えたことがない。今話している彼のように観客を沸かすことなどできるのだろうか。
「大丈夫ですよ」
さっきの男が後ろから言う。
「選ばれるのは、強い理想を抱く人だけです。理想の強さはトークの強さ。あなたはあなたの理想を、言葉に乗せて語ればいいんです」
「理想……?」
俺は呟く。
そんな綺麗な言葉で表現できるものなのかどうかわからない、だが、強い望みなら、確かにある。
些細なことで喧嘩して散り散りになてしまった家族が、再び仲良くできるようになったら。
家族へのかなえられない期待、それが埋まらない不全感は、俺のあらゆる人間関係に暗い影を落としているような気がしていた。
あるいは、牧江との間に起きたことだって、そのことと関係があったのではないか。
「あなたは最後、四番手です。どうぞ、ゆっくり構成など考えてください」
俺は頷いた。
これもあのカードによってイントールされたものだろうか。あまりに唐突で意味がわからないこの状況と自分が置かれた立場への覚悟は、初めからそこにあったように自然に、俺の中に湧いてきていた。
できるかどうかはわからない。だが、やるしかない。
諦めていた。もう俺はこのまま、家族と再び会うこともなく一生を終えるのだと。
だが、今、こうしてチャンスが与えられてみると。
叶う可能性が、あると言うのなら。
それに賭けない手はない。
一人目のトーカーが大歓声の中退場し、二人目のトーカーが進み出て行く。今度のトーカーは若い女性だ。遠目にも、その年恰好にそぐわぬ、悲壮とすら言える決意が目に宿っているのが見て取れる。
果たして、彼女は第一声から、自分が性暴力の被害者であることを直裁的な、それゆえ強いインパクトをもたらす言葉で語り、観客の心を鷲掴みにする。一人目とは打って変わって静まり返るスタジアム。だがそれはむしろ彼女の言葉が観客の奥底にまで届き心を揺り動かしていることの証左と思えた。
できるのか、俺に。
再びそんな弱気が舞い戻ってくる。
そもそも俺の理想は、彼女の掲げたものを押し除けてまで叶えるべきものなのだろうか?
いや。
俺はかぶりを振る。
これは欲望だ。欲望と欲望のぶつかり合いだ。
どんな背景があろうと、どんな高邁なものであろうと、そのことに何ら変わりはない。
彼女が目指す世界に比べて俺の望みが取るに足らないだなんて、そんなことはない。
なぜなら、それが自分以外の誰かにどんな影響をもたらすかは、結局のところ結果でしかないからだ。
欲望に貴賎はない。ただ強いか弱いか、それだけだ。
この場においては、さらに、聴衆の支持を得られるかどうか。
立派な理想だけが人を動かすのではない。よりパーソナルな共感や、あるいは知的な興味。心に訴えかける要素はいくらでもある。
ならば、自分の理想がもつ、そんな要素を、的確に把握しておくことこそ、勝利への鍵と言えるかもしれない。
静かだが熱い共感がこもった、長い拍手を背景に、二人目と三人目が入れ替わる。次は年配の女性。一体どんなトークを繰り広げるのか。
まあいい。俺のトークがそのことで変わるわけではない。
まずは家族というものの美点を語る。続いてこのシステム自体が持つ欠点を。双方を語ることで、家族というものにどんな印象を持っている人も興味を惹かれることだろう。そのあと俺の家族に起きたことを、伝え聞きのように。
頭の中に話が組み上がって行くにつれ、決意もますます強固なものになって行く。
そうさ、賭ける価値は十分にある。
これが叶わない人生など、無意味だからだ。
だからこそ。勝利したトーカー一人の望みを叶えるエネルギーとして、残りのトーカーたちの存在は消費され、世界に初めからいなかったものになってしまうのだとしても。
十分に、賭ける価値はあるのだ。
三人目の話が終わりに近づくのを感じて、俺は自分のほおを叩いて気合いを入れる。