猿の左手
「見てられないよ」
あいつは言った。
「君は自分で自分を傷つけてる。それも、僕への罪悪感から。今は、僕は君のそばにいないほうがいい」
そんな言い訳を残して、あいつはあたしの元を去っていったのだ。
信じていたのに。辛い気持ちをわかってくれると。一緒に乗り越えようとしてくれると。
だって夫婦ってそういうものでしょ?
数年、子供ができず、あたしたちは不妊治療に臨むことを選んだ。検査結果は、あたしの側に原因があることを示していた。
最初のうちは、あいつも優しい言葉をくれた。治療にも協力的だったし、家事をすすんで負担し、痛みと不安に苛まれるあたしを、時には励まし、時には慰めてくれた。
けれども時とともに、そんな様子にも陰りが見え始めた。
憂鬱なため息の回数と、なんとも言えない悲しそうな目であたしをじっと見つめることが増えた。
そして、最後に、あのセリフだ。
言い訳だ。決まっている。
あいつは子供のできないあたしを見捨て、よそで自分だけ幸せになろうとしているんだ。そうに違いない。
「あなたが、いけないのよ」
あいつが新たに暮らし始めた小さな部屋の前で、あたしは古い箱を開く。
母の実家を訪ね、頭を下げて譲り受けてきたものだ。
中に入っているのは一本の干からびた腕。伝承によると猿の手らしい。
これは本来、対の呪物なのだという。
右の手は人の願いを、左の手は人の恐れることを現実にするはずの。だが残されているのは左手だけ。右手は失われてしまったらしい。
母には不思議な力があった。災害を事前に予知し、あたしの傷を癒やし、キラキラふわふわした不思議な生き物たちと語り合う母を何度も見てきたあたしは、そんな母の実家に伝わるといういくつかの不思議な道具についても、疑ったことがなかった。
「でも気をつけてね。こういったものは扱いに気をつけないと、恐ろしい報いをもたらすものだから」
そんな母の言葉が耳に蘇ってきて、あたしはかぶりを振った。
いいや、いいんだ。構うものか。どうせもうあたしには何も残っちゃいない。
ただこんなあたしを残して、あいつだけが幸せになるなんて、それだけは許せない。
呼び鈴を鳴らすと、ばたばたと音がして、あいつが顔を出した。目を見開き、絶句する。その前目の前に、あたしはミイラの左腕をかざし、呪文を唱えた。この男が心の底から恐れることが、現実のものとなるように、と。
全てを失うがいいのだ、あたしと同じように。
次の瞬間、あたしは心臓に激しい衝撃を覚えた。
「うっ!」
思わず胸を押さえうずくまる。
「お、おい」
うろたえ、あたしの体を支えようとするあいつ。
一体何が起こったのだろう。この呪具にこんな副作用があるなんて話は聞いていない。
まさか……
心配そうに声をかけ、背をさすり、救急車を呼びに走るあいつを見ながら、あたしはようやく気がつく。
いや、最初からわかってはいたのだ。先に変わったのはあたしのほう。
長期間にわたる苦痛と出口の見えない状況は、あたしの心を確実に蝕んでいたのだ。
あたしはあいつに当たるようになった。家事のやり方が、かけてくれる言葉が、買ってくれてあプレゼントが、気に入らないと罵声を浴びせ、ものを投げつけた。
そうだ、彼の言ったことは本当だった。
あたしは愛する人の子供を産めないということに、罪悪感を覚え、自分を追い詰め、その裏返しのように彼に当たり散らしていたのだ。
そんな中でも、彼はあたしを愛してくれていた。
だからこそ、ひととき離れて暮らす提案をしてくれたのだ。あたしが、辛い治療から逃れ、一人で冷静になって、子供を産めないことを受け入れられるように。
そしてだからこそ、あたしは今、命を失おうとしている。
それが、それこそが、彼の最も恐れることだから。
「ごめんね……」
あたしは呟こうとしたが、果たせなかった。