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殴り合いの記憶

「権藤? お前権藤か?」
 言われて俺は振り返った。
 ワイングラスを片手に佇むスーツ姿の男。見覚えはないが……いや……
「ひょっとして、浅尾?」
 ガッチリ固めた白髪混じりの頭にも、皺がより始めた下膨れの顔にも、タプタプと音がしそうなビール腹にも見覚えはないが、人懐っこい笑顔をうかべたその目鼻だちに、わずかな面影があるような気がする。 
 男は大きくうなずいて言った。
「おう、そうだよ。懐かしいなあ、元気だったか」
 何がおかしいのか大声で笑う浅尾。俺も曖昧に笑顔を浮かべて見せた。
 懐かしいといえば懐かしいが、高校時代特に仲が良かったというわけではない。別にいがみあっていたわけでもないが、いかにもスポーツマンでいわゆる”陽キャ”だった浅尾と俺では関わることそのものが乏しかった。話しかけられたところで共有すべき話題も思い当たらない。そもそも、仲の良かった相手など数えるほどしかいない俺が、同窓会なんてものに来ること自体が間違いだったのかもしれない。
 浅尾はそんなことを気にする風もなく先を続けた。
「お前、文芸部だっけ? 小説書いてたよな? まだやってんのか」
「ああ、一応、雑誌のライターなんかやってるよ」
「マジか! プロってことか!」
「まあ、小説じゃないけどね。穴埋めみたいな記事ばっかだし、収入だって寂しいもんだよ」
「まあ、それでも趣味と関係あることで食えてるんなら大したもんだよ。俺なんかしがねえ会社員だぞ? プロになれるとは思ってなかったけど、ここまで無縁な生活を送る日が来るなんて、当時は想像もしなかったよな」
「ええっと、浅尾は……ラグビー部だっけ?」
「そうそう。大学までは続けてたんだがな」
「そうなんだ。試合見たりはしないのか? 今年ワールドカップだろ」
「おお、よく知ってるな。一応、テレビやネットで見れる範囲では見るつもりだよ。あんまり課金したり、現地に行ったりっていうのはな、もうそんな情熱も薄れちまった。営業でもやってりゃ、まだ話題にすることとくらいはあるのかも知れねえけどな」
 どこか寂しそうに言う浅尾に、俺は思わず頷いていた。
「わかる。俺だって、物書きしてるとは言っても……あの頃みたいな熱い気持ちは全くないよ。ただこなしてるだけ、っていうか」
「そうか。まあそういうもんかもしれねえな。あのころってほんと、見境なく熱くなれたよな」
「ああ」
 どちらかといえば、運動部の暑苦しさや学校祭で盛り上がる連中に冷めた目を向けていたつもりの自分でさえ、今に比べれば、十分に熱かったのだとわかる。結局、俺は自分が入っていけない世界にいる彼らにちょっと僻みのようなものを感じていただけで、自分の得意分野に対しては熱情を燃やしていたのだ。
 浅尾にしてみれば同じことを続けているように見えるのかも知れないが、振り返ってみると、当時の自分と今の俺では、全くの別世界に生きているようですらある。
 そんな感慨をこめて、俺はうなずいた。
「ほんとにそうだな」
「熱くなるっていえばさ、権藤。あいつとは連絡取ってないのか、ええと……藍原だっけ」
「藍原……」
 俺は思い出す。藍原弘信。数少ない、仲が良かった、と言ってもいいやつの一人。ではあるのだが。
「いや、連絡はとってないよ。大学の頃には何度か会ったけどそれっきり。今日も見かけてないな」
「そうなのか。いやあ、あいつとお前の喧嘩、見物だったよなあ」
「そうか? 喧嘩ってわけじゃなかったんだけどな」
 俺は苦笑する。
 そうなのだ。俺と藍原は、似た者同士でよく気が合ったのだが、似ているからこそ衝突してしまうことも多く、些細なことでぶつかっては教室内で激しい口論を繰り広げていたのだ。
「何言ってやがる」
 浅尾は声を上げて笑う。
「あんだけ派手に殴り合っておいて、”喧嘩じゃない”は通らねえだろ」
「え?」
 俺は聞き返す。
「待てよ、殴り合いなんて、俺は」
「よく言うよ、しょっちゅうやってたじゃねえか。こう言っちゃ悪いが、文化部で、体育の時間だって特に目立つとこのなかったお前らが意外と肉体派だってんで、最初のうちはみんな驚いてたんだぜ」
「いや、そんなことは」
 おかしい。記憶と違う。
 俺は……藍原としょっちゅう言い争いをしていたのは本当だ。時にはヒートアップして、口喧嘩と変わらないものになったことはあったかもしれない。だが、誓ってもいい、殴り合いなど、一度だってしたことはない。
 と、そこに新しく近づいてきて声をかけた男がいる。
「よお、浅尾! ……と、ええっと」
「権藤だよ。権藤、覚えてるか、三枝」
 浅尾がいい、俺は頷いた。細身の体と軽薄な印象が当時のままだ。
「権藤? ああ、あの、よく藍原と殴り合ってた」
 甲高いテナーで言われて、俺は言葉に詰まる。
 浅尾は言った。
「ほらな? みんな覚えてるんだって。誤魔化そうとしたって無駄」
「い、いや、誤魔化そうなんて、そんな」
 おかしい。どういうことだ。
 記憶をいくらさらっても、そんな記憶、出てきやしない。
 俺は一度だって人と殴り合いの喧嘩なんかしたことはない。もちろん、高校の頃だって……
 そういえば。
 俺は思い出す。
 今日は朝から調子がおかしかった。起きた時、漠然と感じた違和感。正体はわからない。だが何かが違う、そんな感覚。
 テレビから聞こえてくる首相や芸能人の名前も、記憶にあるものと少しずつ違うような気がした。時間がなかったこともあってそのままスルーしてしまったが……それに、今日ここに来るまでに乗った電車の駅。普段あまり乗らない路線なので間違えて覚えていただけかと思っていた、だが確かにいくつか、違和感を覚えずに置かない奇妙な駅名があったのも事実だ。「僧面化源房」「巣隠壺蟲」「妄血農奏」など、単に知らないだけとは済ませることができず引っ掛かりの残る駅名。
「おっ」
 呆然とする俺の様子に気がつく風もなく、浅尾は言う。
「誰か来たみたいだぞ……先生!? おい、ネグプフポシュビジジ先生だよ! 懐かしいなあ!」
 奇妙な名前を口にする浅尾の弛んだ首元に、鱗があるのに俺は初めて気がつく。
 そして会場に入ってきたその姿は……その生き物は……カクカクと折れ曲がる奇妙な動きをする多関節の肢に引きずられるように入ってきた、のたうたつ巨体の表面で、不規則に並んだ目が一斉にこちらを見て……
 俺は一体……何でこんなことに……
 遠くなる意識の中で、俺は皆の拍手の音を聞いていた。

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