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SNSの思い出

 明石肇が大原咲江と知り合ったのは、SNS上だった。
 あるマイナーな漫画家の話で意気投合して、相互フォローを開始。日々のつぶやきにも好感を持ってコメントの応酬を繰り返すようになって数ヶ月。突然、件の漫画家の代表作が、なぜか今更実写映画化されることになり、一緒に行こうか、という話になって初対面。観終わった後、ファストフード店でざんざん映画へのツッコミと作品愛を語り合った。
 家に帰ってから、肇は自分が咲江の容姿について、ほとんど何も覚えていないのに気がついた。話が楽しかった、と言う印象の方が遥かに強い。SNSの延長のような、お互い言葉だけで会っているような、不思議な初デートだった。
 一度会ってしまうと警戒も躊躇いも薄れ、二人は時々直接会うようになった。最初は、趣味が合いそうな展覧会や映画に、誘ったり誘われたり。そのうち、何もない時にも食事に行くようになり、そのあと酒を飲みに行くことも、徐々に増えていった。
 最初は気に留めてすらいなかった咲江の見た目……少し赤みの入ったショートカットや、丸い輪郭、常時笑っているような目などに、肇は少しずつ、魅力を感じ始めた。
 そして、肇が出店した同人誌の即売会に咲江が現れた日。新刊を買って帰っていったとばかり思っていたら、「撤収ー」とSNSにつぶやいた直後、咲江から、「実はまだ近くにいます」というDMが届いた。
 じゃあ一緒に食事でも、ということになって、連絡を取って落ち合い、適当な居酒屋へ。
「お疲れ様!」
 驚いたことに、そう言ってジョッキを掲げて笑う咲江を見るまで、肇は、自分が彼女のことを好きなんだと、自覚できずにいた。
 肇はモテないオタクだった。彼女いない歴は、イコール年齢とは言わないが、まあそれなりに長い。そんなタイプはちょっと女の子と親しくなるとすぐに舞い上がってしまい、のみならず相手の親しげな態度に勘違いを募らせ、暴走してしまいがちだ。肇にも、覚えがあった。けれども幸いなことに、そんな経験の中で、彼は慎重さと、自分の立ち位置への自覚を芽生えさせるのに成功していた。
 咲江に対しても、軽率に好きだなんて思わないように、ブロックがかかっていたのだろう。それが、一日の疲れと、ちょっとした打ち上げ気分と、そして彼女が待っていてくれたと言う嬉しさの元に、崩れ始めていた。
「あの、さ」
 酔ったせいなのか気がついてしまった気持ちのせいなのか判然としない頬の熱さを感じながら、肇は足を止めた。在庫を持ち帰るカートの音が止まり、急に静かになる中、咲江は顔をあげた。その顔をまっすぐに見ながら、彼は続けた。
「今日はありがとう、来てくれて。それで、その、さっきさ、急に、わかったんだんだけど……その……僕、咲江のこと……好き、なんだと思う」
 どんな答えが返ってくるか恐れていた肇に、彼女は予想外の反応を見せた。一瞬びっくりしたような顔をした後、吹き出したのだ。
「なにそれ。”思う”って何よ」
「あー。そうか……うん、好きだ」
「わざわざ言い直さなくていいよ。ほんと、肇さんって面白いなあ」
「そうかな」
「あ、拗ねた? ごめん。でも、ほとんど期待してなかったからさ。ほんとは今日こそ、あたしから言おうと思ってたんだけど」
「え?」
 肇は咲江を見返した。
「それって」
「あー、うん。そういうこと」
 咲江は照れて笑った。

 その後、彼らの付き合いは順調に進展していった。連絡先を交換し、夜毎に電話やチャットでやり取りをし、用がなくても頻繁に会うようになった。いわゆる「すること」もしていたが、正直それは二人にとってそれほど重要ではなかったらしく、一晩中話だけして過ごす、なんてことも珍しくなかった。
 つまるところ、彼らはとてもうまくいっていたのだ。
 ところがある時、咲江からの連絡が、ぱったりと途絶えた。肇からのメッセージにも応答がない。それは数日に及び、焦れた肇が直接電話すると、咲江の家族が出て、彼に彼女の死を告げた。
 交通事故だった、という。
 肇のことは聞いていたらしく丁寧な挨拶をしてくれたが、ほとんど耳に入らなかった。かろうじて葬儀の日程を把握し、半ば呆然としたまま、参列をし、挨拶もした。彼女の死に顔を見ても、感情は動かなかった。自分と世界が透明な薄膜で隔てられているような、非現実感だけがあった。
 彼女がもういないんだ、やっとその実感が生じたのは、家に帰り、何気なく咲江にDMを送ろうとした、その時だった。
 あ、そうか、もう連絡しても彼女には届かないんだ。
 そう思った瞬間、涙がポロポロと溢れて止まらなくなった。
 肇は彼女の名前を呼んで泣き続けた。

 数年の時が流れた。
 しばらくの間は虚な日々を過ごしていた肇も、やっと自分なりの人生を生きることができるようになっていた。
 咲江のことを忘れたわけではない。だが、彼女を思い悲しみに暮れるばかりの空虚な日々を、咲江自身が望むとは思えない。
 それはありきたりな、ただの言い訳だったのかもしれない。しかし生きるものには必要な言い訳だった。人は過去の中に生きることはできないのだ。
 だから、新しく恋人ができたことだって、決して悪いこととは言えないはずだった。
 足立香織。職場で知り合った、二つ年下の女性。咲江のようにぴったり趣味が合うわけではなかったが、ミステリー小説が好きな彼女とは、ジャンルは違えどフィクションを愛好するもの同士として、お互いに一定の興味と理解を示し、尊重し合うことができた。
 咲江のことは常に頭にあった。罪悪感とはまでは言えない、ただ、ちょっとした引け目のようなものを、肇は香織と亡き咲江の両方に対して感じていた。
 だから、最初は、それは幻覚ではないかと疑った。
 忘れられない思い出を抱えながら他の女性を愛することへの葛藤が生んだ、一瞬の幻ではないか。
 だが、何度見返してもそれはそこにあった。夢を見ているわけでもなかった。
 咲江のSNSアカウントから、DMが届いていたのだ。
  --ひさしぶり。元気だった?
 アカウントが残ったままなのは知っていた。それどころか、誕生日にはこちらからメッセージを送ってさえいた。だが、こんなことは一度だって、想像したこともなかった。
  --誰だ
 肇は返した。当然乗っ取りか、誰かのいたずらに違いないと思ったのだ。
  --え、あたしだよw なんでそんなこと聞くの
  --だって、咲江はもう、とっくに
  --死んだのに、って? そうだね。あたしは死んだ。それでもあたし、ここにいるよ
  --どういうことだ
  --さあ。でもさ、こんな話してる時点で、これがただのアカウント乗っ取りじゃないことはわかるよね?
  --そりゃそうだけど
  --信じられない? じゃあさ。最初に見にいった映画で、主人公がバーボンじゃなくてウォッカ飲んでたのが許せないって怒ってたの、覚えてる? これ、あたしと肇さん以外知ってると思う?
 驚きつつ、肇はいくつかの質問をした。彼と彼女しか知らなさそうな事実を突き合わせようと。咲江のアカウントはそれに悉く答えた。
  --じゃあ、本当に?
  --だから最初から言ってるじゃん
 涙が溢れた。彼女がもういないんだと実感したあの時のように。だが、困惑もしていた。彼女はSNSの中だけの存在なのだろうか。そしてこの思わぬ再会に涙を流している僕は……この咲江と、どうしたいんだ? 香織のことは、どうするんだ?
 さまざまな思考が浮かんでは消える。
  --ちょっと、時間をくれないか。混乱していて
  --わかった。じゃあまた明日、DM送るね

 肇は全てを香織に話した。かつて恋人がいたことや、その恋人が事故で亡くなったことは、付き合うようになる前に話したことがあった。
「で? どうするの?」
 香織は半分呆れたように言った。
「それあたしに話してどうするつもり? SNSの中にしかいない元カノとより戻して、あたしとは別れる?」
「そんなつもりないよ。動揺はしたけど、彼女のことはやっぱりもう思い出で……今好きなのは、香織なんだ。だた……一体これは、どう言うことなんだろうと思って」
「そんなの、自明じゃん!」
 香織は鼻を鳴らす。
「事実を挙げてきゃわかるでしょ。トリックもクソもない、あまりにあからさまでミステリのネタにもならないよ」
「そう、なのか?」
「そうだよ。はーくんは、認めたくないだけでしょ」
「何を?」
「だからさ、SNSの咲江さんのアカウントに簡単にアクセスできて、咲江さんとはーくんの間にあったことを知ってそう、または知ることができそうなのはさ、咲江さんの家族しかいないでしょってこと! まあ、すごく親しい友達、って線もないわけじゃないけどさ。家族の方が、日記やらスマホのメモ帳やらも見やすいだろうし。可能性は高いと思うよ」
「それは……」
 認めないわけにはいかなかった、その通りだと。
「今日またメッセージよこすって言ってたんでしょ? 問い詰めてみなよ。そんな深い考えがあってやってるとも思えないし、きっとすぐに白状するよ」

 香織の言った通りだった。
  --ごめんなさい。あたし、咲江の姉です。実は、このアカウントで、時々ログインしてたんです。
  --肇さんがフォローしたままでいてくれて、誕生日にメッセージくれるのが、嬉しくて。咲ちゃんをまだ好きでいてくれるんだ、って。そうしてくれてるうちは、咲ちゃんがまだ生きているみたいに感じられて。
  --それで、最近新しい彼女さんできたらしいのを知って。
  --咲ちゃんのこと忘れちゃったのかと思ったら、つい。
  --そんな権利ないですよね。咲ちゃん本人ですらないのに。
  --もう、咲ちゃんは、いないんですよね。
  --本当にごめんなさい
 それきり、咲江のアカウントは沈黙した。

 肇はSNSをやめた。リアルと中途半端に繋がっているのに顔の見えないこの場所に、居心地の悪さを感じるようになったからだ。咲江の姉のメッセージは、肇にも、咲江はもういないのだと言う事実を、改めて思い知らせていた。咲江との思い出の場所から離れ、今度こそ全て吹っ切ろう、肇はそう思ったのだ。

「そこまでしなくてもいいのに……そう? うん、ありがとう。大好きだよ」
 SNSをやめたという肇からの電話を切って、あたしは口元をほころばせた。
 思い通り、いや、予想以上に上手くいった。これで、はーくんはあたしだけ見てくれる。
 事実上使われてないアカウントの乗っ取りなんて、知識があればそんな難しいことじゃないんだよね。咲江さんの書き込み、ぼかしてはあったけど、はーくんとのこともずいぶん書いてあったし。
「ま、でも、もう消しとこうかな。死者のアカウントなんて残しといてもしょうがないしね」
 つぶやいて、スマホを開く。
「あら」
 めずらしく、あたしの本来のアカウントに、DMが届いている。アカウントを切り替える前に確認する。
 途端に背筋が凍りついた。
 そこには、咲江のアカウントからのメッセージが届いていたからだ。
  --消さないで
 とひとこと。

 
 

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