狸汁

「肉は?」
 汁椀をのぞきこんで、旦那が言う。
「肉?」
 あたしは聞き返す。
「だって、狸汁って」
「ああ」
 そういうことか。そういえば「今日は狸汁ね」と言った時、「え、マジで!? すげえ!」なんて言っていたっけ。
「精進料理でさ、こんにゃくの入ったお味噌汁を、狸汁っていうのよ」
「そうなの?」
「うん。この辺じゃあまり言わないみたいね。地元じゃ普通に言ってるんだけど」
「なんでそんな名前なの?」
「諸説あるね。坊さんが肉の代わりに食べたんだとか、油のせいで湯気が立たないのに飲んでみたら熱くて騙されたと思うからだとか」
「へえ」
「レシピサイトなんかにも普通にあるよ」
「そうなのか。初耳だなあ」
 言って、こんにゃくを食べ、汁を啜る。
「うまいけど……ちょっと、がっかり」
「おあいにく様。だいたい、そうそう狸の肉なんて手に入らないでしょ」
「言われてみりゃそうなんだけどさ。一度食ってみたかったんだよね、狸汁」
「狸のお肉が入ってるやつ?」
「そう。昔話とか、子供の本に出てくる料理ってさ、やたら美味しそうに感じなかった?」
 あたしは頷いた。
「わかる。『大どろぼうホッツェンプロッツ』にでてくるプラムケーキとか、『ぐりとぐら』のカステラとか、憧れたなあ」
「俺にとっては狸汁もその一つでさ。一度は食べてみたいなって」
「昔話の狸汁、か」
 ちょっと考え込む。旦那の誕生日が近い。ネットで探せば変わったジビエを扱っているところもあるんじゃないか。
「で、またお袋来たって?」
 ふいに旦那が話題を変え、あたしは顔を上げた。鯖の塩焼きを突き、こちらを見ないようにしている旦那。ため息が出る。
「うん。あいかわらず、どこそこの靴下がいいらしいとか、プラセンタがどうとか、ずーっと捲し立てて、帰っちゃった」
 まだ子供ができないのを心配してくれるのはありがたい。だが、正直ありがた迷惑であるのも否定できない。あたしたち自身は、まだそこまで焦っているわけではないのだ。
 それを横からあれこれ言ってくるだけでも鬱陶しいのに、あやしげな民間療法をあれこれ進めてくるのには閉口するしかない。
 その上、いくらはっきり断っても、翌日にはまた電話をかけてきたり通販のリンクを送ってきたり、果ては連絡もなく突然訪ねてきたり。
 追い返すのもどうかと思ってにこやかに応対してきたが、ここのところ度を越している。そろそろ限界だった。
「まあ年だからさ、思い込み激しいんだよ。テキトーに流しといてよ」
 軽い調子で言う旦那に、もう一つ、あたしはため息をつく。

「誕生日おめでとう!」
「ありがとう。うおお、豚の角煮! ちらし寿司! 茶碗蒸し! すげえ美味そう」
 子供のように喜ぶ旦那が、ふと言葉を止める。
「この味噌汁は?」
「今日の隠れメインよ」
「え、なになに。大根と、にんじん、牛蒡と……肉? 豚汁?」
 ちっちっち、とあたしは舌を鳴らす。
「それこそ、正真正銘、昔話の狸汁!」
「え、マジで!? すげえ!」
 旦那が興奮した声を上げる。
「まあ食べてみてよ」
「うん。いただきます!」
 手を合わせ、汁を一口飲んだ後、箸で肉を摘み上げる。
「これが、狸かあ」
 口に入れて、噛み締める。
「へえ、うまい。ちょっと硬いし、知らない味だけど……ずっと食べたかったものかと思うと、感激。ありがとうね、大変だったでしょ」
「ううん。案外簡単だったよ、精肉は業者がやってくれるし。今はネットで、いろんな人と繋がれるからね」
「それでもさあ、その手配とか……」
 その時、キッチンカウンターにおいた旦那のスマホが鳴った。
「なんだろ。音声通話なんて珍しい……実家からだ」
 スマホをタップし、耳に当てる旦那。
「ああ。うん、今お祝いしてもらってたとこ。え? そうなの? いや、ちょっと待ってね」
 旦那がスマホを耳から外しこちらを見る。
「お袋がさ、一昨日から帰ってないらしいんだけど。家に連絡とかなかった?」
「知らないけど……」
 あたしはできるだけ心配そうな顔を作って言う。
「そっか、わかった」
 と、旦那は再びスマホを耳に当てる。
「うん、知らないって。うん。まあいつものあれでしょ? ああ、うん、わかった。何かわかったら連絡ちょうだい」
 そう言って、スマホを置く。
「どうだって?」
「うーん。前にも話したけど、お袋、ときどきあるんだよね。突然思い立って一人でふらっと旅行に行っちゃうの」
「家にも突然くるもんね、いっつも」
「うん。で、今回もそれだろうと思ってたんだけど、こんなに連絡ないってのも滅多にないからさ、心配して電話をかけてきたみたい」
「そっか。心配だね」
「うーん。だけど、まだ二日でしょ? 連絡しそびれてるだけじゃないかなあ」
「ならいいけど」
 あたしはちょっと安心する。
「まあ、多分大丈夫でしょ。それよりごちそうごちそう」
 旦那が、昔話そのままに作った「狸汁」に、もう一度、箸をつける。

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