憧れの庭
「おーい、赤城! いないのか!?」
呼び鈴を鳴らしながら、俺は家の中に向かって呼びかける。返事はない。
玄関の引き戸に手をかけると、抵抗なくガラガラと音を立てて開く。鍵がかかっていない。
「赤城? ほんとにいないのか? 入るぞ?」
昭和の匂いのするレトロな民家。今時珍しい高さのある上がりかまち。俺は靴を脱いで家に上がった。
一人で暮らすには広すぎる家だ。物置のように乱雑にものが押し込まれた客間や和室。対照的に小綺麗に整えられた居間や台所、そして寝室。そのどこにも、赤城の姿はない。
どこにいっちまったんだ……
途方に暮れ、また少々息苦しさを感じて縁側に出る。曇りガラスのはまった戸を開けると、午後の日差しに照らされた広い庭が目に入った。
「これは……」
見覚えがある。いや間違いない、この庭は。
俺は学生時代のことを、まざまざと思い出していた。
赤城とは大学で会った。たまたま一緒の授業が多く、気がついたときには一緒に飯を食ったり飲みに行ったりする仲になっていた。もちろんそんな友人は他にもいたが、赤城と俺は特に馬があった。考え方や会話のテンポ感、それに趣味嗜好。中でも映画については、こんなに話の合う奴とであったのははじめてだった。
「マジで!? フィリップ・ストレイホーン監督好きなの? 初めて同志にあった!」
と言われた時の俺の興奮をどう伝えたらいいのか。初めて会ったのはこちらも同じこと。こいつならと信じて観せた相手にも微妙な顔をされるばかりだった「深夜」シリーズへの偏愛を、まさか共有できる相手がいようとは。
完全に一人で没入することを好むという鑑賞スタイルも大きかった。俺自身、一緒に映画を見に行った相手が疑問を呟いたりすると、鬱陶しいと思ってしまうタチだったからだ。終映後に感想を話すのはむしろ好きだが、観終わるまでは映画の世界に浸りきっていたい。そうなると安心して一緒に映画を見に行ける友人はほとんどおらず、俺は友人たちが「一緒に行こう」と言い出すのを避けるように、何も告げずに一人映画を見に行くようになっていたのだ。
初めて一緒に映画を見に行った時、終わるまでは一言も口を聞かず、終映とともに長いため息をつく赤城の様子に、俺は初めて仲間に巡り合ったという感動を覚えていた。感想を言い合う時の熱っぽさもよかった。その後俺たちはいくつもの作品を共に見に行ったが、しばしば起こる解釈の食い違いと議論も、また心地よかった。互いの知らないおすすめの作品を教え合い、観にいったり、サブスクリプションやレンタルを利用して一緒に観ることもあった。
そんな赤城の一推しが、ウェーバー・グレグストン監督の「帽子のかぶりかた」だった。
「確かにいい映画だけど、お前がそこまで気に入ってるって、ちょっと意外だな」
俺が言うと、赤城はチッチッチッと舌を鳴らしてみせた
「わかってないねえ。だってストレイホーンのあと継いで『深夜』撮った監督だよ?」
「うーん、俺としてはあれ、ちょっと微妙なんだよなあ。そもそも『帽子のかぶりかた』と『深夜』じゃ似ても似つかないだろ」
「そういうことじゃないんだよなあ」
首を振る赤城に、俺はフォローのつもりで言う。
「いや、まあいい映画ではあるけどな、間違いなく」
「そうだろ、そうだろ? 特にさ、中盤の、庭のシーンあるだろ、あれが俺、大好きでさ」
「わかる。あのシーンが、一見リアルな脚本の全てをファンタジーみたいなものに仕立ててるんだよな」
「そうそうそう! それ! それなのよ! 何一つ幻想的なもの描いてないのにさ、あそこがあるとないとで全体の印象がガラリと変わるの。お前、あそこ飛ばしてみてみたことある? 俺はあるんだけどさ、本当に、全く違って見えるんだよ。ほとんど魔法」
「そこまではしたことないけど……でもわかるよ。そうだろうな」
赤城はうっとりとした目で言った。
「いつか、あの庭を現実に再現してみたいんだよね。貧乏学生にゃ、荷が重いけどさ」
「その上こんなに映画観に行ってちゃな。たまるもんもたまんねえだろ」
「それな」
俺たちは笑った。
卒業して数年。最近では年末年始とお互いの誕生日、共通の知り合いの結婚などの時に、スマホでメッセージをやりとりする程度になっていた。お互い忙しかったのだと思う。そんな中、久しぶりに会って話さないか、という誘いが届いた。なんでも、顔もよく知らない遠縁の親戚が亡くなって、巡り巡って赤城が遺産を相続することになったのだという。近隣に土地と家。田舎にも広い土地。そして莫大な預貯金。
「税金ごっそり持っていかれたけど、それでもまだたんまりあるし。せっかくだから引っ越そうと思うんだよね。広い家だし、一回遊びに来なよ」
そんな一見淡々とした文章の背後にも興奮が滲んでいるように思える。俺はお祝いがてら返事を出した。
「リフォームしてホームシアターとか作らないの?」
「まあ本格的なのはゆくゆくね。とりあえずプロジェクターと大きめのスクリーンくらいは買おうと思ってる」
それじゃあ久しぶりに互いのおすすめなんか観まくろうか、なんてことになり、サブスクには上がらないマイナーなおすすめ作品のディスクを持参して、今日ここを訪れたわけなのだが。
何度呼び鈴を鳴らしても返事はなく、家中を探した挙句、こんなものを見ることになるとは。
あの庭だ。ウェーバー・グレグストン監督『帽子のかぶりかた』の庭。
白地に落書きめいた虹色の書き込みのある椅子。木目のあらわになった丸テーブル。無造作に見えてきちんと植え分けられている草花。程よい枝ぶりのハナミズキ。空色の木柵。
何より、季節が、そして光が……
花は盛りを過ぎていた。ひと月前なら、もっと勢いがあっただろう。そう、ちょうど、あの映画のように。その枝葉を通して差し込みテーブルにあたる日の光。その角度。その柔らかさその……幻想性。
「ほとんど魔法」
そう言った赤城の言葉が甦る。
「……赤城?」
俺は無意識に呟いていた。どこかに赤城の気配を感じて。
ぱさり、と音がしたような気がした。
振り返ると、居間のテーブルの上に、一冊のノートがあるのが目に留まった。さっきからここにあっただろうか。見落としてなかったと言う確信は持てない、だが見た覚えがないのも確かだ。
手に取ると、どうやらそれは日記らしかった。いや、日記というより日誌か。この庭を作るためのメモ書きや成果への感想などを書き込んんだ、いわば「庭制作日誌」。ページをめくると、懐かしい声が聞こえてくるようで、いつしか俺はそれを読むことに没頭していった。
「そっくりのテーブルを見つけた。塗装すると、まさにあのテーブルそのものだ」
「椅子と木柵、それに花壇は業者に頼むことにする。費用は嵩むが、完璧を期したい」
「できた。この庭だ。何度見てもあの憧れの庭そのもの。きっとあいつも驚くだろう」
「庭を1日に何度も眺めている。満足しかない。時々、あの映画の世界にまで入っていけそうな気がする」
「ジャックの姿を見かけた。一瞬だったが、映画に出てくるそのままの姿で。でもまさかそんな」
「今日はナンシーが笑いながら駆け抜けていった。俺は完璧なものを作りすぎたんだろうか。あまりにも完璧すぎて、本当に、あの映画の世界とこの庭がつながってしまったんだろうか。何より恐ろしいのは、俺があちらに行きたいという想いを、抑えきれなくなってきていることだ。長年憧れ続けたあの世界に、もし本当に行けるのなら……」
俺はノートを閉じ、もう一度庭を見た。
風の中に、かすかに、赤城の声が聞こえたような気がする。が、次の瞬間それはふきすぎ消え去っていた。
ノートに書かれていたのとそっくり同じ言葉が口から漏れた。
「まさか、そんな」
家に帰って、何年かぶりに「帽子のかぶりかた」を観た。
ただ、あの庭のシーンを、俺はどうしても直視することができなかった。どこかに赤城の姿が映り込んでいるような気がして。
庭のシーンを飛ばして見る「帽子のかぶりかた」は、かつて赤城が言った通りの、ふつうのいい映画だった。