牛フィレのパリ風メーテルドテルバター添え

「テキトー言ってやがるんじゃねえだろうなあのジジイ」
 三度目の正直とはならず、車で屋敷の門を出た俺は吐き捨てるように言った。
 となりで助手のマイト君が首を傾げる。
「だったら端っからありもしないテキトーな料理名言えばいいと思うんですよね」
 俺は舌打ちする。
「テキトーに言ったのかもしれんぞ。その、なんちゃらバターが」
「メーテルドテルバター」
「そう、それが実在したのだって、偶然かもしれないじゃないか」
「代表的な合わせバターですよ? フランス料理だって食べ慣れてるでしょうし、知らないなんて、ちょっと考えられないです」
「だったらなんでOKが出ないんだ!? 『牛フィレのパリ風』なんて、漠然としちゃいるがそれでもそこそこ当たりつきそうなもんだろ」
「僕もそう思います。ましてや僕らみたいな素人が勝手に考えるんじゃなく、ちゃんとしたシェフがやってるわけですし」
「だよなあ……」
 俺はため息をつく。
 一代で巨万の富を築いた大富豪、山ノ上権田原座右衛門。金にものを言わせ有に百を超える年齢でありながら、己の抱える複数種類の企業を自ら指揮し続けた怪物的存在。そんな彼も、ついに己の健康に不安を感じる時が来たらしい。彼は己の後継者を決めるにあたって、一つの条件を出した。自らの思い出の料理を再現せよ、というのだ。
「牛フィレのパリ風 メーテルドテルバター添え」
 最初、それは拍子抜けするほど簡単な課題に見えた。正解者が続出し、後継者選びはまた改めてやらなければならないのではないかと思えるほどに。実際、多くの候補たち、各社の役員や権田原座右衛門の血縁のものたちが、すぐにそれぞれ名うてのシェフに料理を作らせ、彼の前に持ってきた。だが合格者はゼロ。
「牛フィレのパリ風」というところには確かに遊びがある。多くのシェフはパリの著名な三つ星レストランのレシピによるものを選んだ。それでもそれなりの幅があったのは事実だが、数の多さを考えれば、一つくらいは正解があっても良さそうなものだ。味が違うにしても、見た目くらいは再現しているものがあってもいいではないか。
 メートルドテルバターにしても、基本的なものはバターとパセリ、レモン汁を混ぜ合わせたものではあるが、店やシェフによって、他のスパイスや香辛料、調味料を加えるなどのバリエーションは無数に存在する。だから、実際に料理を口にした結果、それが思い出の味ではないと首を振るという事態なら、十分に想像できた。だが彼は、どの料理にも、口をつけさえしなかった。一目見て首を振り、下げさせる。以上。
 ある程度そんなことが続いてからは皆もう少し慎重になった。再現すべきは権田原座右衛門の思い出の味。ならば彼がかつてそれを口にした年齢、場所、シチュエーションを探り、その時の料理を再現するべきだろう。多方面から調査がなされ、後継者争いは情報戦の様相を呈してきた。俺のような料理とは縁のない探偵に声がかかったのがこの段階。まあ確かに、探偵と言っても犯罪捜査はもとより浮気調査すら本業とは言えず、裏で情報の収集と売買を手広くやっているのが俺だ。自分で言うのもなんだがそっちの世界じゃちょっとは名がしれている。声がかかるのも半ば当然と言えた。だが。
「今回こそ、と思ったんだがなあ」
 信号待ちの間に火をつけたタバコを大きくふかし、俺はつぶやいた。
 記録も関係者も乏しい中からやっとのことで見つけ出したか細い糸。幼少期、フランス料理など口にできなかったであろう庶民の家庭に育った彼が、あり得ない幸運に恵まれて一度だけ食べた、西洋料理店での食事。店を特定し、そのメニューにまさにその名前があったことを突き止め、当時のレシピの覚書まで発見したときには成功を確信した。だが、結果は変わらず。権田原座右衛門は一口も料理を口にすることなく、首を振った。
「どうして一口も食べないんでしょうね」
 マイト君は首を傾げる。
「そりゃ、見た目から違いすぎるからだろ」
「違いすぎると言っても、牛ヒレ肉には間違いないわけですし、調理法だってたかが知れてます。盛り付けや切り方が少し違うくらいで、あんなにまで頑なに口をつけないなんてことがあるでしょうか」
「それは……」
 信号が青に変わる。俺は車を発進させ、言った。
 考えてみればその通りだ。我々だけが試みているわけではなく、それぞれにさまざまな調理法、切り方、盛り付けが試みられているのに、一つも口にしてもらうところまで辿り着いていないというのは、いくらなんでも極端ではないか。
「もしかすると」
「何か、思いつきましたか?」
 マイト君の声が期待に弾む。
「わからん。まだわからんが……洗い直しだ。帰ったら資料を総浚いするぞ」
「わかりました」

「お……おお……」
 老人の目に涙が光る。皿の上に乗った、白い塊の乗ったその皿は、今まで老人の前に差し出されたどの皿とも違っていて、だが添えられた箸を手に取らせるには十分な力を有していた。
 一口。そしてもう一口。
「これだ……まさにこれだ」
 固唾を飲んで見守っていてた周囲のものたちから拍手が起こり、俺は内心ガッツポーズを決めた。
「よくわかったな。私の意図が」
「はい」
 俺は頷く。
 実際にそれを作ったのは老人の前で安堵の顔を浮かべる職人だが、それにたどり着いた過程を話せるのは俺だけだ。
「盲点でした。実際のその料理ではなく、お母さまの勘違いが作り出したものを求めておいでだとは」
「母は古い人間で、肉食には馴染みがなかった。私が必死で覚えてきた料理名を聞き間違えたのも無理はなかった」
 牛フィレ。確かに食肉そのものに縁遠い当時の人にとっては、馴染みのない単語であったに違いない。
 それは和菓子の一種だった。求肥に、焼き栗を包んで、溶かしバターをかけたもの。バターだって高級品だったのではないかと思うが、少なくともそちらは聞いたことがあったらしい。
「偶然よそでご馳走になってきたものが美味かったと何度も口にする私に、そんなにまた食べたいならと母が再現しようとしてくれたのがこれだった。母の苦労を思うと、本当は肉のことだとは言い出せなくてね。だが食べてみると、これが存外美味しかったものだから、わからないなりに必死で私に応えようとしてくれた母の気持ちとも相まって、忘れられない記憶になったのだよ」
「お聞きしてもよろしいですか? なぜ、この品を、後継者選びに?」
「なあに、ただの老人の気まぐれだよ。ただ……」
 権田原座右衛門は一度言葉を区切り、何かを考え込むようなそぶりを見せた後で、言った。
「私は、上に立つものには、想像力と、既成概念に囚われない心、そして人の心に寄り添えることが大事だと、常々考えてきた。その条件に合うものを探すには、良い課題だと思ったのだよ。こじつけではあるし、結局答えに辿り着いたのは、君のような雇われたものだったわけだがね。あるいは」
 老人はもう一度言葉を切り、遠くを見つめた。
「私が母から受け継いだと思っているものを、伝えておきたかったのかも知れんな」

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