ロスト・イン・エレベーター
チーン。
そんな音が鳴った時、異常に気がついてもよかった。
だって今どきあるか? そんな音立てて開くエレベーターのドアなんて。
「ドアが開きます」だの「注意してください」だの、どのエレベーターも喋くっているじゃあないか。
だがそこは俺も120%昭和の男である。つまり「チーン」という音と共にエレベーターのドアが開くのを何度も見てきた実績がある。
そんなわけだから俺はなんの違和感も覚えることもなく、開いたドアから外に出たのだ。
ぼーっとしてたから定かではないが、流石に降りるまでは、見えていたのはごく普通の風景だったんじゃないかと思う。
だから、足を踏み出し、疑問を感じる間もないまま後ろでドアが閉まる音を聞いたあとで、自分が置かれた状況の異常さを、俺は初めてはっきり認識して、
「は?」
なんて間の抜けた声を漏らしたんだ。
だって、俺は……普通に、雑居ビルのエレベーターに乗って、普通に、馴染みのフィリピンパブがある階のボタンを押して……あれ?
なんで俺、ジャングルにいるんだ。
夜のはずだったのに鬱蒼と茂った木々の葉の間から眩い陽光が降り注いでいる。どこか遠くの方で獣や鳥の鳴き声が聞こえる。何かが茂みを移動しているのか、ガサガサという音が意外に近くで響き、俺はびくりと身を引いた。
なんだこれ。どういうことだ。どこなんだここは。
呆然と当たりを見渡す。
俺、ただエレベーターから出ただけやぞ?
どうして……つか、そうや、エレベーター!
慌てて振り返る。と、巨大な木の幹に、呼び出しボタンと、金属製のドア。俺は胸を撫で下ろした。ここがどこであれ、エレベーターが残っているなら、元の場所には帰れるということだろう。
ボタンを押すと、ほどなくチーンと言う音がしてドアが開いた。乗り込んで表示を見ると、やはりここはあの雑居ビルのあの店がある階ということになっている。俺はとりあえず一階のボタンを押した。
体がふわっと浮くような感覚があり、表示パネルの階数が移動していくにつれ、俺はさっきの光景がなにかの幻だったのではないかと思い始めていた。
「アカン、今日は遊ぶのやめて帰ろ」
そうつぶやいた時、チーン、と音がなり、ドアが開いた。俺は足を踏み出す。
と、次の瞬間、俺は一面の氷原の真ん中にいた。
「ななななななんやねん!」
どもったのは驚いたのもあるが寒くて一瞬で身体中が震え出したせいもある。
遠くの方で動いているあの黒いものはペンギンだろうか。さらに遠く地平線近くでは、奇妙にぼやけた赤っぽく弱々しい太陽がゆらめいている。
「じょ、冗談じゃないわ!」
叫んで振り返ると、操作パネルとドアのついた氷の壁がある。俺は上に行くボタンを押して、氷の世界を後にした。
そのあと、俺は再びフィリピンパブのあるはずの階へむかったが、今度は降りるとグランドキャニオンみたいな大渓谷を見下ろす山の上だった。また一階へ行くと人っこ一人いない長ーい砂浜。試しに2階に行くと演歌かサスペンスドラマかっちゅう荒波打ち寄せる断崖絶壁の上。以降どの階に行っても、椰子の木が一本生えただけのマンガみたいな小さな無人島、砂漠の歩ど真ん中、なんだか真っ暗な洞窟のような場所、などなど、いつまで経ってもまともなところに行くことができない。
スマホ? もちろん、連絡を取ろうとしてみた。嫁や友人、同僚、なぜか消し忘れていたらしい遥か昔の元カノにまで、電話やLINE、メールなどあらゆる方法で連絡を取ろうとした。だが、どれも、不通。くるくるまわってエラー。SNSも軒並み一緒。ただひとつ、最近ハマっている音声配信アプリ、ラジオトークだけが接続可能だったが、なかなか知人がライブをやらず、コメントで窮地を訴えることもできない。
どうしたものかと考えながら、お化けでも出そうな廃病院らしい建物からエレベーターに戻った時、俺はふと、自分でライブ枠をひらけばいいんじゃないかと思い立った。
その通りにしてみると、ほどなく何人かの常連さんがコメント欄に顔を出してくれる。
『アニキー!』
『こんちわー!』
俺は内心ホッとしながら、「お疲れSummer!」といつもの挨拶をマイクに向かって語りかける。
一段落したところで、俺は現状を話し始めた。
「ちゅうわけで困り果てとるんだけど、これ、どうしたもんかね?」
多くのリスナーは冗談じゃないかと思っているようだ。
『アニキ、芸風変えたの?』
『日頃の行いが悪いんじゃない?』
『浮気の罰だ!』
などなどのコメントが並ぶ。
「いやいやいやホントのことなんやて」
俺は言うが、自分でも能天気な声になってしまっている自覚がある。これでは信じてもらえないのも無理はないかもしれん、そう諦めかけたその時、「ドライマンゴー」という名前のリスナーのコメントが目に止まった。
『あ、それ、バグだわ』
最初は冗談かと思った。ラジオトークでバグといえば、普通はリスナーに声が聞こえなくなるとか、コメントが表示されなくなるとか、そういったものを指す。というか普通に考えて、こんな奇妙な現象を「バグ」で片付けられるもんか?
ドライマンゴーさんのコメントは続いた。『ちょっと待ってね』
それからしばらく間をおいて、
『わかったわかった。エレベーターに乗って、どの階でもいいから、テキトーに降りてみて』
「テキトーて。まあやってみいいうならやるけど」
他にできることもないし、言われたままに階を移動してみる。すると、ドアが開いた時、そこは見知らぬ広い部屋の中で。
正面に据えられたデスクに、俺が座っていた。
「な……」
「すまん! 迷惑かけた!」
俺は俺に向かって頭を下げた。俺は呆然として俺の姿を眺めることしかできない。
「つまり、バグなんですよ」
女性の声がした。気がつくと、デスクの隣には、中肉中背ただし巨乳の色っぽいねーちゃんが、地味なベージュのスーツに身を包んで立っている。
「バグって……どういう……」
ようやっと言葉を絞り出す。デスクの俺が顔を上げた。
「何から話したらええか……パラレルワールドって、知っとるやろ」
「あー、なんだかいろんな次元が隣り合ってある、みたいな」
「まあそうや。で、ここもオマエにとってはパラレルワールドってことやね。そっちはどうか知らんが、ここではわしはラジオトーク社のオーナーをやっとる」
「オーナー……えっと、社長は?」
ユーザの間でも有名で自らもしばしば配信している女社長の姿が脳裏に浮かぶ。
「ああ、ワイはあくまでオーナーやから」
「ええっと」
頭がついていかない。俺が、ラジオトーク社の?
オーナーの俺はそんな俺には構わず続けた。
「まあそうだったんやけど、ちょっとおもろい技術のこと聞いてな、珍しく口出してもうて」
「技術?」
「そうそう。量子がどうたらで……なんやったっけ」
秘書らしい傍の女性が、ため息混じりに補足する。
「新型の量子デバイス。量子もつれを利用して即時通信を可能にできるかも、っていう技術です」
「そうそうそれそれ。でな、その量子なんとかが、パラレルワールドと関連しとって」
「量子は無数の状態の重ね合わせですから。それがマクロな世界に展開されたものがパラレルワールドだという考え方があります」
「そうそうそれそれ。まあそんなわけで、その新技術の実験をやらせとったら、バグが起こって、時空がひん曲がって、パラレルワールドの混線が起こって。ランダムにいろんな世界のラジオトークのユーザが巻き込まれとんねん」
「そんな……」
そんなアホなことがあるのか。
「まあもうじき修復できそうやから。安心しとって」
「ちゅうても……何でエレベーターやねん。ちゅうかそもそも、なんでラジオトークユーザーが」
「ラジオトーク社で起こった事故やから、ラジオトーク自体が因果律の焦点になってまったらしいわ。エレベータなのは、たまたまやね、巻き込まれた時たまたまオマエがエレベーターに乗ってただけ」
「そんないい加減な……」
「まあいい加減っていやあその通りやけど。今度のことでわしも思ったわ。この世界っちゅうのは、案外いい加減にできとるもんやって」
「オーナーほどいい加減じゃないです」
秘書の女性がいい、デスクの俺は能天気に高笑いした。
修復が終わったと言われてまたエレベーターに乗り、降りると、そこは馴染みのフィリピンパブが入ったビルの一階だった。もう遊んでいく気力もない。俺はタクシーを止めて、家の住所を告げた。
「お客さん、ラジオトークって知ってますか」
不意に運ちゃんが話しかけてきて、俺は目を丸くした。
「あ、ああ、知っとるよ。ちゅうかやっとるよ」
「マジですか! いやね、自分、聴き専なんですが、今日は妙な配信が多くて……何だかおかしな世界に行ってしまったとか、ここはどこなんだとか。何かご存知ですか」
「ああ、それなら、バグらしいよ。知らんけど」
俺はテキトーに返事をする。
「バグ?」と混乱した様子で声を上げる運ちゃんを半ば無視してネオンのゆらめく窓の外に顔を向ける。その光景は、奇妙に曖昧に感じられた。