母なる星
「じゃあ、外すぞ」
「おう」
生唾を一つ飲み込み、着脱スイッチを操作する。三重の警告に「YES」と答えると、かちり、ぷしゅっと意外に小さな音が聞こえ、機密服が萎んで肩や腕に重みがかかる。ゆっくりヘルメットを持ち上げると、俺は殊更に大きく深呼吸をした。
「うまい」
思わず声が漏れる。
高めの気圧に調整された機密服の中はもとより、ある程度は広い船の内部でさえ、自分がずっとある種の息苦しさを感じ続けてきたことを、初めて意識する。
「やっぱり、いいな、自然は」
ジョーンズは言う。直接大気を震わせる声を聞くのも久しぶりだ。見ると、彼はわずかに目を潤ませていた。
「ああ」
自分の答える声も湿っているのを意識しつつ、カゴの中で元気に車を回すマウスを改めて眺める。
有毒なガスも有害な病原体もない、そう確認するための指標。ひと月、こいつが変調を来さないのを確認した上で、俺たちは初めてこうしてこの星の大気を直接呼吸している。
「悪かったな、こんな役やらせて。離してやるわけにはいかないが、落ち着いたらもうちょっと広いとこに移してやるよ。
広範な生態系の調査が終わるまで、持ち込んだ動植物とこの星のそれらを直接接触させるのは、最小限にしたい。
同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
「正直、本当に辿り着けるとは思っていなかったよ」
ジョーンズが大きく伸びをした後でつぶやくように言った。俺も頷く。
「本当にな。他の船の連中はどうしたろうか。俺たちより先に辿り着いた奴らもいるんだろうか」
「さあな。計画通りなら一番近い船もすでに数十光年のかなただ。少なくとも光円錐の内部で辿り着いた奴はいないんだろうが」
俺は再び頷いた。光速度という限界に縛られた宇宙で、情報が伝達しうる時空上の範囲を示す、概念上の円錐。要するに距離が離れるほど、通信には時間がかかるということで、現時点でここに通信が届くためには、距離に応じた分だけ過去にその通信が発されていなければならない。
「皆、たどり着くといいな。ここと同じか、それ以上の星に」
俺がつぶやくと、ジョーンズも神妙な顔をした。
「ああ。母星並みとは言わんがな」
しばし、沈黙が流れる。
母星。はるかな地球。
俺たちが食い潰し、荒らし尽くし、ついには人類の居住に適さないまでに壊滅的なダメージを与えてしまった、母なる星。誰も不満など持っていようはずがなかった。局所的に寒過ぎたり暑過ぎたりすることはあっても、全体としては、俺たちは種の発生よりはるか太古から、あの星の環境と相互に干渉し合いながら、上手いことやってきたはずだったのだ。
それが、いつから破綻し始めたのか。大量破壊兵器を開発した時か。化石燃料を使い始めた時か。いや、ひょっとしたらそれよりはるか以前、火を使ったり安定的な食料を得るべく農耕や牧畜を開始した時から……地球の与えてくれるものだけでは不満だと、俺たちの先祖が考え行動したその時から、破滅が始まっていたのだとしたら。
俺はかぶりを振る。
そうではない。いやたとえそうだとしても、俺たちは、この本能と知恵から逃れることはできない。
だったら、その本能と知恵をうまく使って、今度こそは、失敗を避けるよう努力する以外にないではないか。
今度こそは、この新たな居住地を、食い潰し荒らし尽くすことのないよう、最新の注意を払って入植を進めるしかないではないか。
いつか、我々の子孫がこの星を「母星」と呼ぶようになるまで、この意志が失われませんように。
俺は遥か彼方に残してきた地球に、そっと願いをかけた。