恥ずかしいこと
「最悪」
あたしはやっと辿り着いたカフェの椅子に腰をおろし、ため息混じりにつぶやいた。
朝からろくなことがない。
家を出て駅まで走ってたら盛大に転んだ上に、カードのチャージが足りなくて改札で止められた。電車には間に合ったのだしそういう意味でのダメージはないが、周りの人の目が気になる。言い換えると恥ずかしい。
その上電車で妊婦らしき人に席を譲ろうとすると違うと言われて気まずい思いをし、駅のトイレでスカートのファスナーが開きっぱなしだったのに気づき、鏡を見ると眉のメイクを盛大に失敗していたので慌てて直した。さらにしばらく歩いたあとで知らない人から「まくれてますよ」と指摘された。スカートの裾が下着に挟まっていたのだ。
仕上げにさっきこのカフェのカウンターで注文を盛大に噛んで何度言い直してもうまくいかず、最終的に店員さんが察して笑いながら復唱してくれた。
わかってる。ほとんどが自分のやらかしだ。怒る筋合いはない。だからといって恥ずかしさが消えるわけではなく、内心でそれを誤魔化すためには笑い飛ばすか何かのせいにして当たり散らすしかない。
このままでは会う人会う人に不機嫌を伝染させてしまいかねない。
まずは甘いラテを飲んで落ち着こうとカップを持ち上げたその時。
「やあ、久しぶり!」
思わず飲み物を吹きかけた。危ないところだった。実際に吹き出してしまったら今日の恥ずかしい出来事がまたひとつ増えるところだった。とはいえ。
「どうしてた?」
キラッキラの笑顔で、彼は言う。あたしはどう返していいか分からず、半ば無意識に飲み物をもう一口飲んだ。
「心配してたんだよ、なかなか会えずにいたからさ」
「いや、心配してもらうようなことは……」
「だってお前、めちゃくちゃおっちょこちょいじゃん。またなんかひどいやらかししてないかなって」
「うっ」
朝からの出来事を見透かされたように感じて、思わず言葉に詰まる。彼はそれみろという表情で続けた。
「やっぱりな。今日もなんかあったんでしょ? ファスナーでも開いてた? それともメイク失敗してた?」
「そ、そんなの言われる筋合いは」
図星を疲れてさらにあせるあたし。彼は大げさにため息をついて、言った。
「まったく、お前、俺がいないとダメなんだからな」
ぷつり。
何かが切れる音を、あたしは確かに聞いた。
と思った時には、もう立ち上がり、睨みつけ、捲し立てていた。
「いい加減にしてよ! あんたにそんなこと言われる筋合いないのよ! 大体あんたなんでこんなとこにいるのよ! 悪いけどね、あたしこれからデートなの! もう新しい彼氏いるの! あんたなんかお呼びじゃないの!」
「え……そんな、だってお前、俺じゃないと……」
「あたしの部屋で他の女と浮気して追い出されたのもう忘れたの? あたし、あんなことされて忘れられるほど寛容じゃないの! ていうかね……」
あたしは大きく息を吸い、言った。
「あんたみたいなのといっときでも付き合ってたなんて、黒歴史、最大の汚点、究極の恥よ! わかったらもう行って! 二度とあたしの前に顔見せないで!」
あいつは顔を青ざめさせて、よろよろと去っていった。
あたしは腰をおろし、冷めかけたカフェラテに口をつけた。
ああ……みんな見てる……また恥ずかしいことをしてしまった……
この恥ずかしさをあいつへの怒りに変えることができるのだけが、わずかに救い。
「どうしたの? なんかあった?」
やっと現れた彼に苛立ちをぶつけそうになるのを、すんでのところで思いとどまる。
「なんでもない。ちょっと……朝から盛大にやらかしてさ。聞いてよ」
恥ずかしい体験を笑いながら話せる人がいる、そのありがたさを噛み締めながら、一番恥ずかしいあいつの記憶を、あたしは心のうちに封印した。