夏祭りの待ち合わせ

 遠くの方からお囃子の声が聞こえてくる。
 夕暮れ時の参道。鳥居をくぐったばかりのそこには、お面や風船、光るブレスレット、綿あめなどの屋台が並び、お祭り気分を高めている。
 下駄の音、浮き立つ声の織りなすざわめき。浴衣や甚平を着たカップルや家族連れ、若い男女の集団などが目の前を通り過ぎていく。その顔はどれも明るい。昼間の熱気はまだ地上に残っていたが、それでも時々吹いてくる風には夜露の匂いが混じっていて、体の火照りをわずかなりと運び去ってくれる。
 そんな中、僕は一人、佇んでいた。
 なんでこんなところに来てしまったんだろう。
 小さく舌打ちをする。
 祭り、というものが好きでなくなったのはいつからだったろうか。小さい頃は、それなりに楽しみにしていたような気がする。「おまつり」という言葉の響きにはそれだけでどこかワクワクさせられるところがあったし、いつもは滅多に出かけない暗い時間に外にいるという興奮、闇の中でキラキラ輝くおもちゃや屋台の光、どこからか漂ってくる甘い匂い、そんなものたちも幼い僕を夢中にさせた。
 それが……いつからだったろう。全てが作り事にしか見えなくなってしまったのは。
 お日様の下では安っぽく傷跡の目立つおもちゃの数々、甘いだけのお菓子、すぐに死んでしまう金魚。明日になれば消えてしまう、まやかしの光。
 気づいてしまった時から、僕はもう、お祭りを楽しむことができなくなっていった。
 いや、お祭りだけじゃない。
 日々の楽しいことや嬉しいこと、夢中になったマンガやアニメ、そんなものたちですら、遠からず、色褪せ、光を失い、消えてしまう。
 そう思うと、日々はあまりに虚しくて、僕は滅多に笑うことすらできなくなりつつあった。
「……君! そこの君!」
 ふと、考えごとに沈む耳に一つの声が聞こえてきた。顔を上げると、お面屋の明かりを避けるように、隅っこにひっそりと、金魚掬いの屋台があって、店主のおじさんが手招きしている。周囲には誰もいない。どうやらやはり僕を呼んでいるようだ。
「なんですか?」
 僕は訝りながら屋台に近づいた。
「いや、君、さっきからずうっと暇そうにしてるからさ。なんだかくらーい顔してるし。どうしたの、すっぽかされた?」
「そういうわけじゃ……」
 僕は曖昧に言葉を濁す。
「まあいいや、事情は聞かないけどさ、おいちゃんも暇なのよ。全然お客さん来なくてさ。よかったらどう、一回サービスするからさ、やってかない?」
 そう言って、ポイを差し出す。
 やる気はなかった。でも、気がつくと、僕の右手は差し出されたポイを受け取っていた。自分がそれを持っているのに気がついてから、口の中で、「ありがとうございます」とつぶやく。
 こうなったらやらないわけにはいくまい。まあいい、僕の腕では、どうせ掬えやしないのだし。
 半ば義務のように、僕は器を構えてちょうど近くにきた真っ黒な出目金に手を伸ばした。
 ぱしゃり。
 小さな水音がして、気がつくと、驚いたことに器の中には戯れに狙った出目金がしっかり収まっていた。
「お見事! でも残念、破けちゃったね」
 見ると確かにポイは破けてしまっている。僕は一瞬の興奮をため息と共に吐き出した。
 偶然一匹の金魚が取れたからどうだと言うのだ。どうせ長生きなどしないのだし。
 おじさんはそんな僕の手から器をとり、手際よくビニール袋に入れる。
「はい、どうぞ。それにしても、いいのが取れたね」
「はあ」
 僕は手を伸ばして金魚を受け取る。おじさんは言った。
「見てごらんよ、その顔。自分をすくおうとして、その実囲い込むばかり。今や小さな袋の中だ」
 何を言っているんだ、そう思って袋の中を見て、はっとした。
 なぜなら金魚の顔は……それは、僕自身の顔だったから。
 激しい眩暈が襲う。世界が回転し、遠のき、僕は……
 気がつくと僕は、透明な水の中から、外の世界を眺めていた。泳いでどこかに行こうとするが、あまりに狭くてほとんど動けない。目の前に、ニタニタと笑った金魚屋の顔が広がる。大きく不明瞭な声が届いてくる。
「いっちょあがり。全く楽なもんだよ。こっちが何もしなくても、自分で自分を捕まえてくれるんだから」
 そうか。
 僕は諦めと共に思った。
 失わないために、楽しいことを締め出していたのは自分。それは自ら狭い世界に閉じこもることでしかなかった。
 どうせ同じなら、このまま金魚として生きていくのも、悪くはないのかもしれない。
 だって、これまでと何も変わらないのだし。人としての煩わしいあれこれがない分、気楽でさえある。
 どこに連れて行かれて、何をされるのか、そんな恐れは不思議となかった。思考能力自体も、金魚並みになってしまったかのように、僕は人としての自分のことを緩やかに穏やかに忘れつつあった。
 けれど……
 何かがひっかかる。
 そう思った、その時。
 後ろから、右手首を掴まれた。
 ハッとして辺りを見回す。祭りの喧騒があたりに響き、さまざまな光が万華鏡のように煌めいている。そこは袋の中ではなく、僕は金魚ではなかった。
 振り返ると、そこに彼女がいた。
 僕の幼馴染。中学に上がった頃くらいから疎遠になって、今も同じ高校に通っているのに、ほとんど挨拶もしない。そんな彼女に突然夏祭りに誘われたのは一週間前。たまたま帰り道で一緒になり、久しぶりに少し話をした、その時のことだった。
 気乗りはしなかった。けれども曖昧な返事をするうちに、いつの間にかすっかり場所も時間も決まっていて、「じゃ、来週ね!」と踵を返して立ち去る彼女の後ろ姿を呆然と眺めながら、僕はため息混じりに、その誘いを受け入れるしかなかったのだ。
 そうだ、だから、僕は今日、ここにきたのだ。何年も足を運ぶことのなかった夏祭りに。彼女との待ち合わせのために。
「遅くなってごめんね」
 彼女は言い、その後で慌てたように手を離した。
「あ、ごめん! 声かけてるのに、ふらふら歩き出すから、つい……何かあった?」
 言われて正面を見ると、そこには周囲の明かりを逃れたような薄暗い一角がある。だが、そこにあったはずの金魚掬いの屋台は、どこにもなかった。
「いや、何でもない」
 僕は言った。
「何でもないんだ」
 そして僕は彼女を見た。水草と金魚が描かれた明るい色合いの浴衣。結い上げた髪。普段見かける制服姿とは全然違っていて、なんだか知らない人のようだ。
「な、なによ」
 彼女はちょっとあとじさる。
「ジロジロ見ないでよ」
「あ、いや……ごめん。ただ……」
「え?」
「似合ってるなと思って」
「……何よ」
 彼女は怒ったような声を出す。
「つまんないこと言ってないで、早く行こ。あたし、焼きそば食べたい!」
「あ……うん」
 足早に歩き出す彼女。僕は見えない糸で引きずられるように、その後を追う。
 その時、どん、と低い音がした。見上げるとちょうど空に大輪の花火が広がるところ。
「わあ……」
 彼女も足を止める。
 ぱらぱらと言う音を聞きながら、僕はこっそり、光に彩られた彼女の横顔を眺めた。
 久しぶりに、自然に、自分の頬に笑みが浮かぶのを感じた。

 

 

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