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ヤケ酒顛末記

 以前酷い失恋をした時に、もうダメだ、これはヤケ酒を飲むしかない、と決心して酒を買いに行ったことがある。

 当時徒歩十三分の距離にあった一番近いコンビニで、さて酒は何にしようかと考える。ヤケ酒というからには悪酔いしなければならない。マズいほうがいい。安酒がいい。
 どこかで、赤ワインは皮の成分が不純物となり悪酔いしやすいと読んだことがあった。当時あまり飲みつけていなかったので美味いと感じられないのではないかとも思った。そして安いものがいくらでもある。赤ワインを買った。つまみはなし。ヤケ酒なのだ。空腹に浴びるほど飲んで気持ち悪くなってやるのだ。
 部屋についた。週末の深夜である。翌日は休み。悪酔いする準備はできていた。俺は赤ワインの封を切り、キャップを外して直接ラッパ飲みをした。グラスなど使わぬ。やさぐれた飲み方をしてこそのヤケ酒であろう。
 舌を刺す酸味、あとに残る渋み、胃を直撃する不快感、そんな身体的苦痛を、俺は期待していた。俺の失恋に傷ついたハートは何かそういうものを求めていた。癒しではない、世界に向かって俺はこんなに傷ついていますよと訴えるための形式、やさぐれた気分の可視化、絶望の自己表現。
 ところが。それらを俺に与えてくれるはずの、一口目が。
 あろうことか、ウマいのである!
 何だよ、と、俺は思った。
 俺は傷ついてるんじゃねーのかよ。絶望してんじゃねーのかよ。味なんか判断してる場合かよ。なんでウマいことがちょっと嬉しいんだよ。
 コンチクショーめ!
 俺は気を取り直した。そうとも、味なんか問題じゃない。今ちょっと嬉しかったような気がしたのは錯覚だ。人生のすべての喜びは彼女と共に去って行ったのだ。この上は飲みなれない酒をガバガバ飲んで悪酔いするのだ。この精神的汚物を現実の吐瀉物に変えて撒き散らしてやるのだ。
 一口ごとに俺を襲う美味という快感に必至で抗いながら俺は酒を飲み続けた。去って行った彼女と、彼女の新しい、そして全ての未来の恋人たちに向けて、果てのない呪詛を吐き散らしながら。  
 しかしそんな俺の前に第二の障害が立ち塞がった。腹が減ってきたのだ。
 おいおい、冗談はよせよ。俺は失恋に嘆き苦しみ懊悩して酒を飲んでるところなんだぜ? 恋に悩み傷ついた老若男女は「飯も喉を通らなくなる」もんなんじゃないのか? なのになのに俺ときたら何だって呑気にハラ空かせてんだ!?
 そんな内心の葛藤をよそに、カラダは正直である。気がつくと部屋のあちこちをあさりツナ缶やら何やら見つけ貪り食っている俺がいた。
 しかも、おお、何てこった、これがまたウマいのである。その上ウマいことがちょっぴり嬉しいのである。
 畜生、畜生。俺は絶望に浸りきれない自分に悪態をついた。
 もうこの上はアルコールに縋るしかない! 俺の体に溜まるアセトアルデヒドは、必ずや今俺を襲う生理的快感を駆逐し、俺が精神の奥底で感じているはずの地獄の苦しみを、肉体を通してこの地上に具現するであろう! 俺は酒を飲んだ。激しい勢いで飲み続けた。飲み続けようとした。
 ところが俺のそんな思いに反して酒は大して減っていないのに気がついた。無意識のうちに体がセーブしているのだ。
 何を! 俺は不退転の意思を持って酒をあおった。これ以上本能に邪魔されてなるものか!
 しかし肉体はそんな俺に、ついに最後の刺客を送りこんできた!
 眠い。眠いのである。
 なぜだ。悩み苦しみ眠れない夜を過ごし日に日にげっそり痩せて行くのが恋に悩む者の王道ではないのか。しかも酒はまだ半分ほども残っている。なぜだ。なぜ俺はこんな時にまで眠くなったりするのだ。なぜ寝てはいかんのだいや違うなぜ寝なければいかんのだ。寝ないぞ寝るものか。眠ってたまるか。眠らないぞ眠らないぞ眠らない眠らない眠ららい眠らい眠い眠い眠……

 気がつくと朝だった。天気は快晴。二日酔いの兆候もなくむしろ気分爽快である。畜生、俺は自分の不甲斐なさに嘆息しつつ、最後の抵抗とばかりに残りの赤ワインを一口ラッパ飲みした。やっぱりうまかった。

 それ以来、俺は自分の精神の根本的な、能天気なまでの健全さについて、ある種の諦めを持つようになった。一度それに気がついてしまうと、機嫌が悪いのはだいたい腹が減っている時だし、飯がうまければ多少のことは笑って流せるのが俺という人間なのだった。

 これが俺のヤケ酒の顛末である。


あとがき

過去に描いたものの中で多分一番評判がいいショートエッセイ。
基本的に全て実話です(笑)

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