夏の扉
ドアを開けるとそこは向原の部屋だった。
「あ、ごめん、間違えた」
向原は読んでいた文庫本から顔をあげ、僕を一瞥すると、ため息をついた。
「氷川さ、いい加減覚えろよ。読書中だったから良かったものの、えっちなことでもしてたら気まずいだろうが」
「あー……」
僕が言葉を濁すと、向原は眉を顰めた。
「なんだよ、ひょっとして小竹の部屋ですでに」
「……いや、セーフだけど。まだベルトに手をかけたとこだったから」
向原はため息をついた。
「マジか……いや、鍵をかけない俺らも俺らなんだけどさ」
このシェアハウスに越してきて三ヶ月。確かにいい加減部屋を間違えることなんてなくなっても良さそうなもんだけど、ちょっとぼーっとしているとついほかの部屋のドアを開けてしまう。部屋数は6つで、埋まっているのは4つ。ひどい時は空き部屋も含めて全部屋のドアを試してからようやく自分の部屋に辿り着くと言う体たらく。ちなみに僕と向原と小竹のほか、もう一人は女性だが、流石につねに鍵をかけているのが救い。しかしいきなりノブをガチャガチャやられるのも相当嫌、というか怖いだろう。やらかした時はタイミングを見て謝るようにはしていたのだが、彼女は最近になって目の高さに派手なドアプレートをつけるようになった。おかげで彼女の部屋だけは、避けることができるようになった。
「お前らもなんかああいうのつけてくれるといいんだけどな」
小さな声で言うと、聞きつけた向原が声を強めて言う。
「あのなー、なんで被害に遭ってる側が余計な手間を負担しなきゃならんのよ。百歩譲ってつけるとしても、そっちで用意するのが筋ってもんだろが。あのドアプレートだって、お前が費用負担していいくらいだぞ」
「いや、まあ、そうなんだけど……」
返す言葉もない。
そもそもなんでこんなに毎度部屋を間違えてしまうのか、自分でもよくわからない。
学生時代に住んでいた、なんの特徴もないドアが並ぶ学生アパートでも、同じ頃毎夏行っていたサークル合宿でも、あるいはビジネスホテルだって、部屋を間違えたことなどほとんどない。
向原はもう一度ため息をついた。
「全く、まるでピートだな、お前」
「ピート?」
僕は聞き返した。突然なんの話だろう。
「今読んでる本に出てくる猫の名前。夏が好きで、冬の間中、家中のドアを開けて回るの。どれかのドアが、暖かい夏につながってるんじゃないかって」
「夏……」
「いや、夏かなんかしらねえけどさ、流石にちょっと常軌を逸してるだろ、その間違えっぷり。何か、無意識に、逃避願望とか、行きたい場所とか、そういうの、あるんじゃないの」
「そう……なのかな」
思い出さずにいられない。
向原の素人精神分析みたいな適当な発言はさておき、僕がどこかに……いや、夏に行きたがっているのは……いや、戻りたがっているのは、間違いのない事実だったからだ。
夏に始まった恋だった。
大学のサークルで知り合った二つ年下の彼女。合宿をきっかけに仲良くなり、夏が終わる前に付き合い始めた。
クラゲが出て泳げなくなった海で、砂浜を走り、笑いあった。青い空の色と、彼女の黄色いシャツがはためく様子が、今でもくっきりと目に焼き付いている。
それから数年の間、僕らは笑い、泣き、喧嘩をしたり、仲直りしたりを、巡る季節の中で繰り返した。落ち葉散る舗道、クリスマスのイルミネーション、桜咲く公園。どれも忘れ難い記憶を残しているが、振り返る時その中心には、いつも夏があったような気がする。あの最初の夏、潮風にはためいていた彼女のシャツが、僕らの間で始まり、そして終わって行った恋を、一つの色に染めているように思える。
そう、終わりも、また、夏だった。
「もう、やめよう」
彼女は言った。あの始まりの夏と同じ色の服を着ていた。それがわざとだったのか、偶然だったのか、僕にはわからない。この先も、わかることはないだろう。
その夜は寝付けなかった。
向原とのやりとりが、僕の未解決の葛藤を浮き彫りにしていた。
僕がここにきたのは、彼女と別れてから半年ほど経った、この春先のことだった。彼女との思い出が堆積した部屋に住み続けることと、彼女がいないと言う喪失感と、そのどちらに耐えきれなくなったのか。たぶん、両方だろう。とにかく半年で、僕の精神は限界を迎えていた。
シェアハウス、という選択は、だから半ば必然と言えた。新しく特別親密な関係を積極的に作るほど全てを吹っ切れたわけではなく、かと言ってこれ以上一人でいることには耐えられない、そんな僕の見出した妥協点。
そうしてたどり着いたここで、僕がまだ、彼女を……彼女と過ごした夏を取り戻したいと思っているのだとすると。
その扉を……夏の扉を見つけてあの日に戻る以外に、解決策などあるのだろうか。
僕はベッドから起き上がった。
このまま煩悶していても埒があかない。とりあえず台所に行って、酒でも飲むとしよう、そう思った。
部屋を出る。すると、どこからくるのか、奇妙に明るい光が廊下の床を這っているのに気がついた。辺りを見回すとすぐに出どころがわかった。端っこの部屋のドアの隙間だ。
端っこの部屋?
僕は考える。だてに何度も部屋を間違えてはいない。いつもはちょっとぼーっとして無意識に間違えてしまうのだが、冷静に頭を働かせれば、人がいる部屋かいない部屋かくらいはわかる。そこは空き部屋のはずだった。
なんだろう。
僕は廊下を進み、その部屋の前に立った。そして奇妙なことに気がついた。
この家のドアは、どれも隙間などなく、ぴっちりと閉まるような構造になっていたはずだ。なのにこの光は、ドアを縁取るように、四角く均等にこちらに伸び、レモンのような鮮やかな色で周囲の壁や床を染めている。
それに……熱気。
ドア越しに、伝わってくる、じっとりとした暑さ。
どこからか、音が聞こえてくる。
ざざ、ざざ、という低いノイズ。これは……波の音?
まさか。
僕はカラカラになった喉で唾を飲み込む。
この向こうには、夏があるとでも言うのか。
失ったあの夏が、この扉の向こうにあるとでも。
まさか。そんなバカな。
否定しながら、抗えず、僕はノブに手をかけ、そのドアを大きく開けていた。
波の音がする。
潮風の香り。
眩い光。
そして……
僕は彼女を探した。
この風景。この光。何もかもに見覚えがあった。
これはあの夏だ。ならばここには、彼女がいるはずだ。
辺りを見渡す。だが人影はない。名前を呼ぶ。歩き回る。やがて走る。
しかしいつまでたっても、彼女は現れなかった。
「そりゃそうだよ」
不意に声がした。僕は期待を込めて振り返り、そして呆然とした。
そこにいるのは……それは僕だったから。
「なんだ、お前は」
「見りゃわかるだろ。僕は、君さ」
「何を言っているんだ。僕は……」
「正確には、君がなるはずの君。君がなれずにいる君」
「……どういうことだ」
僕の顔をしたそいつは、どこか悲しそうに言った。
「気づいているだろう。もうじきまた、夏がやってくるって」
「夏? それがどうか」
「君が探さなくたって、夏はやってくる。新しい夏がね」
「新しい……」
僕はその言葉を噛み締める。
「……嫌だ、僕の夏は、あの夏以外には」
「無理だよそれは」
そいつは言った。
「終わった夏は戻らない。けれどもまた夏は巡ってくる。君が望もうと、望むまいと」
「そんな、だって僕は……彼女を……」
「彼女はもういない。わかってるだろう」
「だけど……僕は……」
「新しい夏を、受け入れるんだ。そして続く秋を、冬を、春を。受け入れさえすれば、夏の扉は、いつだって君の前に開くんだよ」
「僕は……僕の夏は」
「新しい夏を受け入れた時、全ての夏は、初めて、本当に君のものになるんだ。彼女との、思い出もね」
気がつくと、僕は扉の前に立っていた。人の住んでいない、端っこの部屋の扉。
夢でも見たのだろうか。けれども、ただの夢ではないような気がした。光と熱、波の音、潮風の香り、それらがあまりにも生々しく、僕の五感に残っていたから。
それからあと、僕はもう二度と、部屋を間違えることはなかった。