生存報告
こんにちは、お久しぶりです。
なんとか生きております。
多分前回の更新から文学フリマを3回過ぎましたな。更新できず申し訳無い。
「今日」を生きるのが精一杯で、明日が来るのかは半信半疑。それでもとりあえず眠って起きて眠って起きて、してます。
職場の手続きの関係か、傷病手当金が滞っておりびっくりするほどジリ貧ですが、
これは私が停滞しているからなんでしょう。
動き出せばいろいろずるずると一緒くたになって回りだすはず。
そう信じてます。
ええ、これは希望。
確定ではありません。
ポジティブさんにはわからないかもしれない感覚です。
文字にするととっても簡単なんですが
「自分の価値があるように思えない」
「しかし生きねばならない」
「だから苦戦している」
という、わかりきったよくあるジレンマですね。
作家の友人と話しておりまして、
「明里ちゃんにはわかるとおもうけどさ」
と、共感しかないなんならヘドバンする勢いで同じ価値観を話し込んできました。
わかる。わかるしかない。
だって多分、同じような感覚を持って生きてきた。昇華の仕方さえ違うけれど、
同じように命を注ぐ作家です。
命がまずそこにあって、その周りに世界がある。
そう考えられる人は私どもとは少し違うのです。
私どもは自らの価値を見いだせない。明日終わってもいい。今日、確実に誰かに何かを遺せたら、言い換えればそれは墓標で。
その墓標たる作品を遺すことができたら、ようやく生きていていい、免罪符のようなもの。
命は、自分の命は作品に注ぎ込むもの。
削って削って、そうしてやっと作品を生み出す。
だから、私どもは感覚的に
「世界があって、その中に自分たちの命がある。いつ消えても支障が無い薄い命。だから世界がどうあっても私どもは作品に命を宿すことを止められない」
という、感じですね。
伝わらないかもしれない。
それならそれで仕方がない。
まあ、そんなことを考えながら、
「作品を作るためには生きなければならない(不本意ながら)、だから働く必要がある」
ということで、目下社会復帰を目指しております。
お休みしても、あんまり良くならない。
だから今のこの状態からどうにかできないか模索しています。
今の世の中だからこそ、もしかしたらできるかもしれない。
そう願って、とりあえず生きてます!
今日はお鍋です。