バタイユ『エロチシズム』~禁止と違反~

皆さんはHですか?エロいですか?
エロが好きですか?もちろん好きなはずです。

そんなえっちについての哲学書、バタイユの『エロチシズム』は僕の大好きな1冊です。

最初に結論から言うと「禁じられれば禁じられるほどそれを乗り越えた時の興奮は高まる」ということです。これがえろの本質です。

序章
人間が人間らしい社会を成り立たせる上で労働は使われてきました。その労働には様々には欲望を抑圧する必要があります。つまり、労働によって暴力や性欲を抑圧し、人間は動物性から脱するのです。

ヘーゲル哲学が「理性」をキーワードにした「動物から人間への進化」だったのに対して、バタイユは「人間から動物への回帰」というカウンター哲学になっているというわけです。

「労働」は人間が人間らしく生きていくために用いられたものと言う事は、後から出来たということ。言い換えると人間本来には不必要な行為です。原始時代にそれは無かったように。

そのため、労働本来は人間にとって楽しくなく不自然な行為になるのです。理性と逆のベクトルを向くのが「暴力」であり、バタイユは禁止を乗り越えるための暴力として「違反」と定義します。

ここまでをまとめると、人間は「理性」を手がかりにして動物から人間へと進化してきたのであるが、それは人間にとって本来的では無いのです。なぜなら、人間のベースには動物性があり、その特徴として「暴力性」が挙げられます。
認めたくないですが、人間は暴力を振るうことに快感を覚える生き物なのです。それが人間が動物性に回帰するという事に他なりません。

次章
ここで大きく語られているのは「禁止と違反はセットである」という事です。
禁止は違反という形で「実行」を意味します。禁止は制限を設けてその形を規則化します。
禁止はこうした活動によって罪人となったものに贖罪の機会を与えられるのです。故に、禁止と違反はセットである。祭りもそうです。普段なら抑圧しなければならない物が発散されている感覚こそが祭りであり、それは禁止がないと生まれないものなのです。

禁止と違反のコンビネーションは現代になっても同じなのです。
例えば、浪費。財産を積み重ねていくことが善とされる世の中ではお金を使うことが「禁止」とされています。故に、お金を無益に使うという行為は「違反」であり、そこには「快感」が付き纏うという訳です。
ここでのポイントはその禁止が大きければ大きいほど違反した時の快感と興奮は大きくなります。浮気や不倫、犯罪が無くならないのはこう言った人間の本能的な部分なんですね。

これらから分かることはエロとは「禁止を違反する行為の事で、その禁止が強ければ強いほど違反した時の興奮は高まる」と説明できます。

バタイユはここからさらに議論を進めます。
男性が女性を犯すという事において、女性は禁止を高める方向に進化してきたのでは?という仮説です。服を着ている事、美しくあろうとすること、貞操観念が緩いことが悪とされること。
これらは男性が禁止を違反する際の「禁止」を強める方向性に作用するのです。

この本を日常生活に生かすと『日頃は禁止を強めた禁欲的な生活を送り、ときどき違反を犯して快感を得る』というライフハックが有効だと分かりました。二郎系ラーメンも控えよかな。

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