紀年論(日本書紀の事績の年次確定)についての考察



はじめに

 日本書紀における初期天皇の事績には、空白年が多く存在し、現在の常識における年齢を大きく上回る、長寿の天皇が複数存在するため、事績の年次特定が必要である。
 一番支持が多い崩年干支を含め、事績の年次特定の方法の多くは、特定の事績を、どの年次に配置するか、を解決するための方法であり、事績年を統合することが趣旨ではない。つまり、事績の年代のずれがほぼ無いならば、崩年干支を用いる意味が無いのである。
 日本書紀では応神・雄略・欽明を中心に、百済史年表で対照可能な出来事が複数記載してあるが、雄略年間の文斤王崩御、継体年間の武寧王崩御、そして欽明年間の任那復興の3つに関しては、日本書紀記載のオリジナルの統治年間を用いても、事績の年次のずれはわずか2年であり、崩年干支を使うまでもない。
 問題は、上記の3事績より計算した、雄略元年は457-459年であり、倭の五王、興(462)・武(478)が、ともに雄略となることである。出土品等の解析により、倭王・武=雄略であることが、現在ほぼ確実視されており、雄略即位年を、興が遣使した462年以降に、ずらす必要がある。「雄略即位年を何年後ろにずらすか」、「新たに生じたずれをどこで解消するか」が、問題である。つまり、雄略以降の事績年確定の問題は、「始点はいつなのか」である。

 一方、応神年間の直支王崩御から計算した雄略1年は611年であり、上記の457-459年とは、100年以上の大きなずれがある。
 伊藤雅文氏が提唱する、「無事績年削除法」という方法がある。日本書紀で年次が記載されない空白の年間を削除するという方法である。この方法で、応神年間の直支王崩御から計算した雄略1年は475年であり、457年と18年のずれはあるが、はるかに現実的である。
 ただし、前述した3事績の年次に、今度は12年のずれが生じている。ここから分かることは、雄略~欽明の事績の年次は、一括で再配置された可能性があるということである。つまり、このなかに真の年次が隠れている可能性が高い。つまり、雄略1年は457-469年のどこかだろう。
 また、応神年間の空白年は、雄略以降とは明らかに異なる法則が働いている。では、どの天皇から、その法則は働いているのだろうか。
 その前に、無事績年削除法の正しさを確定させたい。

欽明天皇、父・安閑天皇、母・山田皇后、説


 日本書紀では、欽明の即位時と崩御時、「年は若干」という記述が登場します。この時代の「年は若干」の定義は不明ですが、父・継体崩御時10歳だとすると、無削除だと、欽明崩御時の年齢は、48歳です。明らかに矛盾します。
 事績年かつ欽明崩御時1歳で、欽明崩御時30歳ですので、30歳までを「年は若干」と、仮に定義しましょう。
 また、欽明は即位時に山田皇后(安閑皇后)を摂政に指名したが辞退されたと伝わりますが、親族とは言え兄嫁に摂政を託すでしょうか。実際は山田皇后は欽明の育ての親的存在であり、欽明の真の父は安閑と疑われます。
 幼い欽明を戴いて、山田皇后が数年間親政を行ったのでしょうか。
 日本書紀、欽明記の初期数年は任那復興会議などで、主役は百済・聖明王や家臣です。
 欽明自身の詔勅は即位9年以降に増加します。欽明15歳(安閑・宣化の事績年を加えれば)の年齢ですね。古代における成人年齢であり、現実的だと思います。
 いかに古代でも、30歳を超えて「年は若干」とは評さないだろう。無事績年削除法の確からしさが伺える。

 蛇足ですが、継体・安閑・宣化・欽明を、和風諡号だけ見れば、仲間外れは明らかに継体です。「国」「広」は安閑・宣化・欽明が共通に持ち、「武」は安閑・宣化が共通に持っています。他方で継体は特に共通していません。
 また、日本書紀では、継体の崩御時の年齢82歳、安閑の崩御時の年齢70歳ですが、安閑の治世は2年ですので14歳の時の子供です。安閑の親が継体かどうか、そもそも疑わしいです。

無事績年削除法の痕跡


成務天皇の立太子は、書紀の景行年間では、景行51年だが、成務年間には景行46年と記載に矛盾がある。景行記の47年~50年は、記載が無い無事績年である。
また、顕宗年間を読めば、顕宗崩御年は顕宗3年のはずだが、仁賢年間には顕宗5年と記載されており矛盾がある。こちらも顕宗4年は無事績年である。
どちらも、無事績年を挿入した痕跡の可能性が考えられる。

応神記の百済王に関する記載の矛盾


応神記には、明らかに年代が特定できる記事が3つある。応神二年、百済・阿花王即位(392)、応神十六年、百済・阿花王崩御(405)、応神二十五年、百済・直支王崩御(414)、である。百済史と応神年間の、これらの出来事の配置は一見整合性がある。問題は、応神三十九年、百済・直支王が妹を日本に遣使したという記事である。直支王崩御の記事から既に14年経過している。年次が確定している記事は固定して、空白年次を無理矢理挿入した痕跡であろう。
 ここからは、無事績年削除法が正しいと仮定して、実際に日本書紀を読み解いていく。

履中・允恭王朝、反正王朝、並立説


 仁徳の皇子とされている履中・反正・允恭の3天皇ですが、允恭の崩御時、日本書紀では「年は若干」という記載が登場します。和風諡号でも「稚子」とあり、若年で死去したことが強調されます。
 前述したように、30歳以下であると仮定します。書記の記載通りならば、允恭の治世は42年であり、矛盾は明らかです。事績年のみで、崩御時年齢を30歳ギリギリと仮定すれば、仁徳死去時8歳であり、「仁徳の息子、かつ、崩御時年齢が30歳以下」が成り立ちます。
 しかし、本当の問題は、和風諡号の「宿禰」の部分でしょう。通常臣下に付ける称号のはずです。個人的には、母の出自を記載できないため、精一杯示唆したと考えました。「宿禰」といえば武内宿禰の子孫でしょう。
 応神天皇=武内宿禰の隠し子説があるので、別に和風諡号に「宿禰」があっても良いのでは、という意見もあると思いますが、それなら複数の天皇に存在してしかるべきです。しかし実際は允恭のみです。
 仁徳および息子たち(允恭本人を除く)で武内宿禰の子孫の娘と結婚した者を探ると、有力なのは葛城襲津彦の娘を母に持ち、襲津彦の息子・葦田宿禰の娘と結婚した履中でしょう。
 仁徳晩年の子供の可能性もありますが、履中・反正と並び、磐之媛の同母兄弟というのは、女性の妊娠適齢を考えると、無理があります。ここからは私の仮説ですが、允恭は履中の息子だと思います。母は葦田宿禰の娘です。
 
 次は、同じく仁徳の息子とされる反正です。和風諡号「多遅比」が問題です。この時代、人名として多いのは多遅=但馬=田道、いわゆる天日矛の子孫です。仁徳の妻で多遅=但馬と関係があるのは、皇后・八田皇女です。八田皇女は同母兄が菟道稚郎子(宇治天皇)、母は宮主宅媛と伝わりますが、先代旧事本紀では、物部多遅摩連女、と記されています。多遅摩=但馬でしょう。
 日本書紀には、他にもおかしい記載があります。ほとんどの天皇では、元年、二年あたりで皇后を明記されますが、履中即位後の年間に、黒媛を皇后と明記していません。また、ほとんどの天皇では、元年、二年あたりで前の天皇を葬る記載がありますが、反正の次に即位した允恭は、5年(事績年も5年であり、空白年は無し)に葬っています。
 
 ここからは、完全に私の妄想ですが、反正は宇治天皇の息子でしょう。宇治天皇の王朝を継いで再興した可能性があります。漢風諡号「反正」は、仁徳死後の内乱を制圧した功績でつけられた、と伝わりますが、応神後に嫡子として即位した宇治天皇の正統後継者として王朝再興したことで、「反正」と名付けられたのが、真相では無いでしょうか。
 履中記で黒媛が、皇后と明記されなかったのは、宇治天皇と仁徳天皇の間で、息子同士が、宇治天皇の息子⇒仁徳天皇の息子の順に即位することが、取り決められていたことを、示唆するのではないでしょうか。
 履中6年、黒媛死去後の、次の正妃を皇后にしていますが、これは取り決めを破り、履中が即位していたことの示唆でしょう。また、允恭5年に反正を葬っているのは、並立王朝の反正が、実際は允恭4年に死去したことの示唆でしょう。
 私の説の結論は、仁徳死後、反正天皇が即位⇒不明年、履中が並立して即位⇒6年、履中死去、息子の允恭が即位⇒12年、反正が死去、です。ただし、両統が、いつ再統合したかは分かりません。

倭の五王の比定


 さて、雄略1年は457-469年のどこかだろう、と前述した。倭王興は462年、倭王武は478年に宋書に記載があるので、雄略即位は早くて462年だろう。雄略の治世は23年なので、最も早い462年の即位でも、倭王武は雄略以外にありえない。倭王・武=雄略で確定である。
 雄略1年が462-469年であるという仮説に基づいて、無事績年削除法によって、倭の五王を比定したものが下記である。

 問題が生じた。治世14年であることから、倭王・済=允恭、で確定であろうと言われた定説に、当てはまらなくなったことで、矛盾が生じてしまったのである。
 ここで重要となってくるのが、先述した、履中・允恭王朝、反正王朝、並立説、である。履中が並立王朝として即位を宣言した年は不明なので、仮に反正3年として、表を修正してみる。

 欽明年間の任那復興会議、雄略が最速の462年に即位した事績を始点にすると、済に当てはまる人物が存在しないが、武寧王崩御を始点にすると、倭王・済=反正で確定する。讃・珍が仁徳天皇ひとりに比定されることに関しては、伊藤雅文氏も言及しているが、実際には応神崩御後、仁徳天皇の前に宇治天皇が即位していたと考えれば、疑問は解消する。
 以上、倭王・讃=宇治天皇、珍=仁徳、済=反正、興=允恭、武=雄略、が私の結論である。

おわりに


 紀年論は、いまだに結論が出ない、古代史の大きな謎である。「実在が有力視されている崇神以前の考察が重要だろ!」という意見も当然である。
 私が考察する限り、伊藤雅文氏が提唱する「無事績年削除法」は、かなり確度が高い方法だと思われる。

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