ガーリックポークと僕の味
ニンニク香る豚肉と僕への疑問
「これ、食べてみてくれる?」
ある日のこと。アルバイトをしているお店———ライター活動も認めてくれ、接客したお客さんから仕事が生まれることもある、クラフトビールが売りの不思議なお店———で、新メニューの試食を頼まれた。
見た目はなんの変哲もない(といってはシェフに失礼だが)、豚肉のロースト。しいていえば中心になにか詰まっているが、外側にまで影響は及ぼしてなさそうだ。いったい何が変わったのだろう?
確かめるべく、外側を少し切っておそるおそる切り分けて口に運ぶ……おどろいた。ニンニクの香りがするのだ。それも下味やタレのとがった味ではない、自然な風味。
「ニンニクの味がします!!」
驚きのあまり少し早口にシェフに伝えると、なぜか嬉しそうにうなずいた。
きいたところ、どうやらこのお肉に使われている豚は“ガーリックポーク”といって、ニンニクを食べて育っているらしい。ニンニクを食べることで病気にもかかりにくく、元気にそだち、独特なニンニクの香りをもつようになるそう。
日々、口にするものがそのまま、自身のアイデンティティを構成しているわけだ。
なぜかしみじみと感動してしまい、同時にある疑問がうかんだ。
「僕の味はどんなだろうか……?」
無味の自分とニンニクを纏う豚肉
僕の味。
味というのは、体臭や口臭とか小手先で変わる部分ではなくて、なんというか、もっと芯の部分。
僕の芯の部分が醸し出す雰囲気や行動、発する言葉たちはどんな味を持っているのだろうか?
幾度かnoteに書いたように、僕にはあまり自信がない。したがって胸を張って紹介できる個性というものも思い浮かばない。感性は鈍く、根性はなく、そのくせ惰性でダラダラとこれまでの習慣を続け、未来におびえるちっぽけな人間だ。
だからこそ、今を楽しみ、未来に期待するためにも”個性”というものを強く望んでいる。必要以上の期待なのはわかっているけれど、それでも何かが変わるような魅力を感じている。
自分に無いものばっかり目がいってしまう悪いクセ。隣の芝生はいつだって青い。
そんな僕も文章や会話、態度、などをみた人から「優しいね」といってもらえることがある。
嬉しい。そう、すごくうれしい。だけど。
「失礼だ」「せっかく褒めてくれたのに」と感じてしまいながらも、吐きそうになってしまときがある。わざとではないけれど、だましてしまったみたいで。でもやめようと思ってもやめられくて。罪悪感が噴き出すのと止められなくなってしまう。そうして、言えやしないこんな言葉を、心のなかで呟く。
「僕は、僕のやさしさは、あなたが思ってるような、清らかで正しい思いやりに満ちたモノではないのです。」
優しくしますか? ▶はい:いいえ
すなおに白状してしまえば、僕の優しさは”後付け品”だ。オプションパーツと呼ぶのも甚だしい、劣化版の粗悪品。
誰かが優しさを感じてくれている場面には、どんなときも頭のなかに選択肢が浮かんでいる。
駅の券売機で前の人がお釣りを忘れたとき。重いものを持った人がよろめいているとき。小さい子どもがつまずいたとき。友人が寝坊したとき。
「優しくしますか? ▶はい:いいえ」
まるでRPGだ。つくられた優しさ。
そうして優しくありたいと意識的に「はい」を選び「やれやれ」と優しさをふりかざす。
しかもタチの悪いことに、自分が嫌なモヤモヤを抱えたくないがために「いいえ」を選ぶことためらってしまう。「優しいね」といわれることを期待してもいる。
”偽善”の2文字がこれほど似合う人はそういないだろう。
人にみせる白く温和な側面と、人にみせない黒く臭い沼のような側面。自分の歪みを知り尽くしているからこそ、期待していたはずの「優しいね」は最大のブーメランとなる。
優しい人に囲まれて、優しい作品にたくさん触れてきているのに。それなのに、目の前の人をだまし、善意すら踏みにじり、あまつさえ感謝までさせてしまった。
「無意識でやってるわけじゃないんだ」「選んでやっていて」「反射的に優しくできるような人じゃない」「いい人の面を被った、姑息な奴なんだ」
そんなこんなで、弱っているときには吐き気を感じてしまうのだ。
――――――
たかが試食のお肉一つ。けれど頭のなかの嵐は収まらない。
「大丈夫か?」とシェフが気にしてくれた。大丈夫です、と返しつつ、もう一切れ、ガーリックポークを口に運ぶ。
この豚たちは何種類かのエサからしつけられて、ニンニクを食べているのだろうか? それとも、ニンニクがおいしいから食べているのだろうか?
選んでニンニクを食べたのか、反射的にニンニクを食べているのか。
なんにせよ、このお肉からは、たしかにニンニクの味がする。