YEGアップデート試論 ~議論の構えとしての「慮る姿勢への回帰」~

昨日参加した、とある会議での雑感として。
そして、今後のYEG活動へのフィードバックとしてメモ。

あらゆる団体の会議を見ても同じような景色が広がる。
具体と抽象との往復が出来ない人たちが、具体のみで発議している。

レイヤーを上げて、抽象で質問してきても、返答は具体でしか答えられず、相手への答えが、応えるべき答えになっていない。

それはどういうことかと言えば、「あなたが考えるアイディアは、どんなコンセプトなのか。そして、そのコンセプトにアイディアが整合しているのか」という問いに対して、「私は、このアイディアがベストだと思ってやってます」という答えが返されるのである。

このような受け答えでは、質問も、結局は、考え方を問い詰めるものの、自らがどう考えるかというフィードバックのない、単なるダメ出しへと劣化していく。

具体的、つまり、何を実行するかということで分かりやすい。
しかし、何故、それを実行するのかという問いに対する答えは、抽象的な発想が求められる。

抽象化しないと、本質が他人に伝わらないからである。

議論に慣れている人は、話の本質が掴めるわけではなく、単純に、問い詰め方を熟知しているに過ぎない。そこには、欲しい答えを持っているかの確認もしくは、答える能力を問い人間力を試すような冷やかしと言える構えが存在する。

結局は、創案者の意志や意図を深く理解しようという包摂的な構えは持っていない。むしろ、自分の方が優れた考えを持っているという自己表現であり、他人への承認を拒むような、ある種の情動と言える。

創案者は、掲げる理想はあるものの、それを抽象化、つまり本質を丁寧に説明するという構えを持ち合わせていない人が多い。

それは、自分を理解しきれていないと言える。
つまり、自己認識がほとんど積み重ねられていないのだ。
これが、いわゆる、未熟という状態でもある。

この景色を言葉にすれば、「みんな、自分にも他人にも興味を持ちきれない、意識を持ち合わせない時空における交流会」ということになる。

これでは、具現化(承認・遂行)が厳しくなるのは当然と言える。
議論も、その目的を果たすことが許されない次元である。

結局、質問者は自分の概念で議案を見て、自分の知り得る範囲もしくは知りたい範囲に対する確認として抽象的な質問を繰り出すことしか出来ない。

これは、ある種、礼節程度の忖度は存在するものの、結局は発議者への人格的なダメ出しに終わっているのが問題なのである。

こういう状態が、平常化している。
少なくとも、ここ5年は間違いなく。

この場合において、会議における論客というのは、「大局的に議論をフォローし、リードしていく存在」ではなく、「発議者の盲点や粗捜しをベースにおいたダメ出しによって、発議者を委縮させる存在」となっている。

いわゆる論客はこの程度。
しかし、もっと悪いのが、発議者にである。

まずは、質問者の真意を理解していない状態で、自己弁護に終始している。
そして、答えになっていない、その事実にも気づいていない。

質問を受けるたびに、自分が否定されているかのような錯覚に陥り、必死に自己正当性を満たそうと躍起になる姿は非常に悲しいとも言える。

これは、対話する両者が、自己認識を相手を通して確認しているにしかすぎないために起こる現象である。
平たく言えば、相手が何を言わんとしているのかを汲み取ろうとしないのである。

つまり、議論が成立しないのは、「相手を気遣わない」せいなのである。
このように、自己主張の対峙を繰り返したところで、議案は置き去りになってしまう、時間は浪費され、一体、何のために議案を議論しているのかという目的さえも見失い、紛糾すらなされず、沈黙と共に盛り下がる。

議論を経て、最終的には、議案がより高い次元へと引き上げられれば、議論という対話は価値を生む。

何が言いたいのか。

議論の仕方を学べとか、もっと賢くなれとか、そんな下らないことを言うつもりは毛頭ない。

言いたいことは一つである。

「もっと相手のことを知ってあげよう、理解してあげよう、思いを汲んであげよう、認めてあげよう、支えてあげよう」という人としての包摂力を各自養おうよ!ということ。

思いやり、優しさのような、母性と。
強く導くような、しっかりとした、父性と。

そういう人間性を、ある意味、取り戻すことから初める時代が来たと言いたい。

自分のことばかりやる時代はすでに終焉し、隣の人のことや、向かいの人ことを支えるような包摂性を兼ね備えた人材が求められる時代に入ったことに留意しながら、人間関係構築能力の再編をしなければならない。

例えば、YEGのような特定の年齢層で束ねられた団体は、酒を酌み交わしながら交流する機会が多いが、大概バカ話しかしないことが多いため参加者が減りつつある。もはや、飲み会などオワコンと化している。


実際、私はお酒が飲めないけど、そういう場には参加しているが。
最近は、出ても意味がないと思い、出ないことも多い。

飲み会の価値は、そこで会話する内容ではない。ましてや、酒を飲んでグダグダになることでもなく、酔っ払って言いたいことを言い合うことでもない。

もう誰も教えてくれなくなった本質的な価値としては、同じ場において、あらゆる会話を通して、お互いを知り合い、分かり合い、信用を置き合う共通体験として、飲み会は価値があるのではないかと改めて感じる。

個人的なケチなものの見方で、メリットがあるのかとか、無駄ではないだろうかなどと決めつけて逃げるような思考はもはや時代に合わない。

そう考えると、「仲間を大切にしよう」という言葉が妙にしっくりくる。
仲間を大切にすることで、信用の気づき方、信頼のおき方を学ぶのではないかと感じるからだ。

もっと人行き合う、そのことでしか何かを変えたり、成し遂げたりすることはできないだろうと痛切に感じるのは40歳を目前にしてオッサンになったせいなのか、それとも、時代を見据えることが出来てきたからだろうか。

そんなことを強く感じます。
これからの時代は、「正しいか、間違っているか」ではなく、「まともか、クズか」に分かれる時代なので、気を引き締めて、事に取り組んでいかなければならない。

「任せて、グダグダ文句を言う」のではなく、「引き受けて、グングン成長する」のが、これからの時代の乗り越え方なのではないだろうか。

となると、YEGのようなコミュニティはもっと必要で、いろんなコミュニティに関わりながら、豊かな人間性を取り戻していくことが、本当の意味で、地域の活性化になるのではないだろうかと気づきを得た。

そう強く感じた次第です。

さあ、あなたはどうする?

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