これからの写真の役割への試論~写真という存在への考察と新たな使命について~
写真ビジネスは、年々後退している。
写真文化は、拡大しているのに。
それは、何故か。
銀塩フィルムによる記録保存としての存在は、現像プロセス無しには実体となれないせいで現像プロセスのためにビジネスは繁栄した。
デジタル化の波によって、この「仕方なくやってきた」現像プロセスは壊滅的に流され、実体としての記録保存が瞬時に可能となった。
これによって、撮影者のコスト(お金と時間)が大幅に削減された。
そして、今や撮影シャッター数は、2000年頃の数十倍となった。
本来なら、削減された時間とコストに比例する形で、シャッター数が劇的に上昇し、それに伴い印画紙へのプリントアウトが増加するように感じた。
しかし、デジタル化の肝は現像プロセスのような面倒な作業無しで情報をデジタル保管できる特性と、撮影データがメディアの損壊が無い会切り、経年劣化しないという点が、印画紙へのプリントアウトの理由を阻んだ。
しかし、ここで一つ疑問がある。
大いなる疑問点である。
例えば、カメラ・写真が発明された時代が、すでにデジタル化が実現した昨今だとしたら、そもそも、写真屋などは存在しなかったのだろうかという点だ。
「フィルムの現像」「印画紙への焼き付け」というプロセスのおかげで、写真屋は存在したがゆえに、デジタル化による合理化のために、写真屋は必要なくなってきたのか。
もはや、画像データとしての価値しかなければ、家電量販店や携帯販売店がカメラとしてのデバイスを販売していればいいのである。
この単純な疑問への「答え方」によって、写真屋の「構え(姿勢)」が問われるのが重要な点だとご承知頂きたい。
私の考えとしては、「間違いなく、存在し得なかった」と想像する。
そう考えると、写真屋・カメラ屋というものは、単なる「機能としての歯車」という存在だと認識できる。
それ無くして、事(見える化)が進まないがゆえの、必要な存在。
そして、事が必要無くなれば、不要な存在なのである。
では、すでにデジタル化した現在における、写真屋の存在意義はなんなのだろうか。今日は、そこについて試論を展開したい。
さて、話は変わるが、ここで我々が日々を営む社会(共同体)について考えたい。
グローバル化した昨今において、国の歴史を紐解きながら、国民性を世界の国々と対比し、優劣をつけたり、良し悪しを語る論調が多い。
しかし、どの国の人々も、根本的に「生存するための戦略」を選んで昨今まで生き続いている。これは誰でも同じ、例外は一切ない。
国土の気候や、食物事情、政治事情、統治体制、あらゆる不安定要素を見据えながら、文化や慣習を選択し、いわゆる共同体性質、国民性まで構築してきた。つまり、それが社会という枠組みとなる。
例えば、日本と言えば、稲作文化がメインであり、稲作を育て、守り、人々が生き延びるために、文化を作り、習慣を作り、行政を作り、法を作り、村を作り、家族を作り、技術を深め、伝え続けたように。
グローバル化、つまり国家間における資本の自由移動が可能になった昨今の各国の情況や性質を、前提としての枠組みが「断絶しきった過去の歴史に基づいて、分析している」ことには疑問を感じて仕方がない。
その分析も、10年経てば、全くのズレだと気づくからだ。
こういう分析にとどまらず、人間は「あの頃」へ戻る気質がある。
「あの頃」とは、自分が知り得る情報の社会(すでに規定された世界)と比喩できる。
「あの頃」が良かったよね。
「あの頃」が懐かしい。
「あの頃」に戻れるなら戻りたい。
誰一人、「これから」を語らず、常に「あの頃」へ思いを馳せる。
※ここで言う「これから」とは、未だ規定されていない、偶発可能性の高い情況でありながら、実は伏線はすでに存在している社会及び世界。
「あの頃」を軸に、未来を想定することは容易いが、非常に危うい。
問題の本質が、全く足元に見えていない可能性が多いからである。
歴史は繰り返す、とは言う言葉がある。
しかし、それは、人間が「あの頃」を目指して同じことをするためだ。
「これから」を考えないから、繰り返すハメになるだけとも言える。
「これから」を考えるのは難しい。
しかし、そこに踏み込めなければ、日々の営みは、「これから」においては一切の時間の無駄遣いとなる。
確かに人間の本質を問う姿勢は、果てしなく以前から存在する。
が、しかし、その人間が帰属する共同体や社会に対する本質を問う姿勢は戦後の皆無のように見えてしまう。人間のある種族は、稲作の確保のために共同体を築いた。育て、分け合い、命をつなぐために。
そこに帰属する誰一人として、必要な労働力であった、役割があった。
懸命に働く一人一人のために、一人一人が相互に助け合う。
まさに「社会的包摂(あるいはソーシャル・インクルージョンとは、社会的に弱い立場にある人々をも含め市民ひとりひとり、排除や摩擦、孤独や孤立から援護し、社会の一員として取り込み、支え合う考え方のこと。社会的排除の反対の概念である。)」である。
稲作農業における村的な共同体のみならず、現代における町の共同体、地域の共同体、活動団体など、あらゆる共同体はこの「社会的包摂」という側面を併せ持つがゆえに、これまで大きな役割を果たしてきたといえる。
大きな役割とは何か。
経済成長期において、同じような時代を生き、同じような価値観に落ち着いた、いわゆる「中間層」によって形成された共同体が、立場のつらい仲間の世の中への不満や鬱屈を表出させることを防ぎ、いわば「感情の劣化」を緩衝させてきたからだ。まさに「社会的包摂」である。
地域の共同体という枠組みを通じて、他人同士が同じ価値観を頼りに行き合い、コミュニケーションを行うことは、人間にとっては欠かせない状態であることを、共同体が空洞化した昨今の末路を見れば明らかなことと言える。「感情の劣化」があらゆる場面にも出現し、それに伴う不安の埋め合わせのために自己本位な思考や行動を優先し、結果的に人間としてのコミュニケーションを自ら排除し、孤独になり下がるという酷い状態へと変わり果てた。
そう、つまり、社会がクズ化しつつあるということである。
クズとは、人と人との行き合うことによる感情の回復が見込みづらい状態と例えよう。
こういう時代背景と、デジタル化した写真文化をどのように融合して、商売とし、社会の役に立つ価値を生み出せるか。
そこが一番の課題だと、私は最近思うようになった。
いや、実は、数年前から肌感覚で感じていたのかもしれない。
さて、本題に戻ろう。
写真のビジネス、つまり極端に言えば、写真のプリントアウトなどが分かりやすいが、これらがかつてバブルだったころよりも衰退しきった理由としては下記2点が想定される。
①社会における共同体が「社会的包摂」の能力を発揮できた時代においては、写真は間違いなく、共同体におけるコミュニケーションツールとしての役目を大いに果たしていたということ。
昨今は、この共同体が空洞化した結果として、コミュニケーションツールとしての役目が果たせなくなって、多くの人に不要となったのではないかということ。
②写真ビジネスに従事する者たちが、あまりにも儲かったせいで、拝金主義に陥り、写真ができることに関して、企業もしくは業界単位で「熟議」を重ねることなく、単なる「消費行動」としてのみでしかお客さんを認識してこなかったことが大きな要因だと私は感じている。
写真が、地域においてどのような存在意義を持ち、人々にどんな豊かさをもたらし、写真文化がどのように引き継がれていくのか。そういう細やかな洞察をしてこなかったツケが、この転換期に払うことになり、思考力を鍛えなかった企業(大手ではキタムラカメラ)や商店(在郷の写真屋など)は、諦めて市場から退出(売却や廃業)したということだ。
私たち写真業の者たちは、「勘違い」に陥らないように注意が必要である。
決して、お客さんのニーズが変わったわけでもない。
写真に飽きたわけでもない。
人気がないという薄っぺらい理由でもない。
間違いなく明白なのは、写真業に携わる者たちが、写真の本質的な価値を今まで考えて、発見してこなかったために、お客さんも本質的な価値を感じれないという「写真価値の劣化」を引き起こした可能性が高いということ。
これからの写真屋の役割は、人と人とが行き合うことで豊かな感情を育み、人と人とが助け合う共同体の修復を目指した「感情の回復」への一助として役立つことが大事だと気づける。
写真の本質的な価値を見出し、そしてお客さんを通じて、写真が役立てる真実を伝えながら、写真を通じて、人と人とがコミュニケーションを積み重ね、人生を豊かに彩るための手助けが出来ることを信じて、日々、商売に精進していくことではないだろうか。
マーケティングとしての戦略や戦術も、もちろん大事である。
しかし、それは「今」という状況における「大河の流れ方の決定」でしかなく、「そもそも大河はどこへ向かって流れているのか」という問題意識には程遠いかもしれない。
写真のプリントアウトを行う人は、人口の5~6%と聞いたことがある。
それは、つまり、ある種のダイバーシティな人々よりも数が少ない。
社会においては、マイノリティなのである。
写真という価値を用いて、人との結びつきをしっかりと築き、そして信用関係を維持している、他人に気遣いができるという、古き良き日本の原風景のような人格を持つ人々は、もはやマイノリティということかもしれない。
孤立化、孤独化し続ける昨今において、これでは、今まで「公」として価値が見られた写真文化は、単なる家族の成長を記録するだけという「個」の産物で終わるという可能性が高くなるかもしれない。
となると、いくら広告を「価格」や「商品価値」と謳ったとしても、誰も聞いていない原っぱで叫んでいるような効果しか得られないのは当然なのかもしれない。
そう考えると、これから「写真文化」をどう捉え、どう伝えるか。
それは、私のような写真屋が、写真の価値をどう設定するのか。
そこに尽きるように感じている。
持論としては、写真は、これまでもそしてこれからも、人と人とを結び、地域の共同体が社会的包摂を取り戻し、地域の人々が人生を楽しく豊かに過ごせるための、ツールとしてのキッカケが提供できるはずと信じている。
私のお店のコンセプトは、
「写真を通して伝えたい あなたの想いを支えるために」である。
つまり、この信念を言葉にしているのだと、今さらながら気づいた。
最近、いろいろと、これまでに学んできたこと以外の領域を学びながら、膨大な時間をかけながら気づいたことは、非常に大きい意味がある。
私たちのような商売人は、自分の店や商品、価値だけのことを考えるには稚拙であり、さらに目の前のお客さんの表面的な事象だけを学ぶには浅はかすぎる。
出来れば、もし可能であれば、目の前のお客さんの背後に見える、人生や家族、共同体までに視野を伸ばし、多元的に理解する訓練も必要なのはないかと思う。
そうしなければ、自分が営む商売の領域が、存続可能なのか、消滅が不可避なのかを考察しなければ、絶対に努力が報われない時代に突入した現実を受け入れなければ未来が無いのである。
商売は、モノとコトと金と人だけの世界では終わらない。
常に、自分の商売という経済と、地域社会と、文化が重なり合う世界なのだと痛感している。
そのことに気づいている商人がそれほどいるのか。
これからの学びの場では、こういう議論、視点で対話を積み重ねながら、私たち商人の役割を通して、商売にイノベーションを起こしていきたいと願っている。
斜陽産業は、ただの斜陽産業ではない。
人々が合理化のために捨ててきた非合理性の蓄積に対し、産業自体が変革を起こせなかった結果でしかない。
この非合理性に、合理性を取り戻すことができれば、産業は回復を迎えることも不可能ではないと思う。
つまり、斜陽産業にこそ、昨今では人々が見失いつつ本当に大切な要素が埋もれ隠れていて、それを掘り返して、人々に返すことが出来れば、傾きは変わり、新たな価値の産業へと生まれ変わるのではないだろうか。
写真業界は、まさに、それそのものだと私は確信している。
どこまで、どのくらい出来るか分からないけど、この考え方を誰も理解できないとしても、挑戦していきたいと思う。
写真は、絶対に凄い。
それだけは、間違いない。
乞うご期待頂きたい。
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