「地域おこし協力隊」の根本的な課題は「ソーシャル・キャピタル」という人間関係の本質を知らない人が「興味本位な好奇心」でのみ参画していることです。
例えば、自身の地元で活動していた人などは居ません。
「ここではない、どこかへ」というエニウェア族が大半です。
【参考資料】Anywhere vs Somewhere (David Goodhart)
https://note.com/globalpea/n/ncf5b1724337b
つまり、客観ではなく、主観で「地域」を観光しているだけです。
観光的に観察することと、生活的に観察することには大きな「視座の相違」が存在します。
「なんにもないちゃ」とは、観光資源を指しません。
生活資源として、特に目新しいものは無いということです。
「恩恵」を有難がることはありません。
何故ならば、そこに生きるとは、「恩恵」も「厄難」も引き受けるからです。
協力隊の人は、例えば、地域が水害で居住不能な損害を受けたとたんに「地元に帰る」ことができます。住民は出来ません。
地域は「おこす」のではなく、「守る」ものです。
基本的な原則です。
共同体の「従属規範」でしか生きていない協力隊には、到底理解できないことがあります。
それが、共同体の「存続規範」です。
実は、60代以下の世代は、みんな知りません。
無知ゆえに、協力隊という「やってる感」が目立ちます。
しかし、不可能です。
その人の実力以前の「前提」の問題です。
何もかも「商品化(市場化)」して、問題から逃げる時代。
観光とは、そもそも、地域資源の「切り売り」です。
何のため?
行政のやってる感のためでしかありません。
そもそも「地域」とは「閉ざされ」です。
それを「開かれ」に「閉ざしている」のが、地域おこし協力隊です。
「閉ざされに開かれる」ことが重要になってきている時代に、
「開かれに閉ざされること」しか地域の盛り上げ方が分からない頓馬な私たち。
この課題の本質は単純です。
「任せて文句を垂れず、引き受けて考える」のです。
あらゆるニュースから読み取れてしまう「ちぐはぐ」や「でたらめ」の出発点が、全て「ソーシャル・キャピタルへの無理解」だと気づけるはずです。
共同体の空洞化がどんな影響を及ぼしているのか、既に分かりやすい事実が湧き出ているということです。
何故、地元の人材ではなく、外部から招聘するのか。
そこに「開かれへの閉ざされ」を感じて仕方がないのである。