短編【震える声】小説
志島朋美が留置所にいる兄の志島洋に面会をしたのは事件が起こって半年が過ぎた頃だった。
来月、志島洋が起こした殺人事件の判決が下される。
通常、起訴から二、三ヶ月で終わる裁判が半年も過ぎてしまったのは殺人の動機が不明であること、凶器が見つからず殺害方法が不明であること、志島洋自身の犯行時の心神喪失の有無の確定がされていなかったこと等が理由であった。
志島洋が犯した殺人事件。
それは自身の親族、傍系尊属にあたる大叔母の志島佳代を殺害した事件である。
志島洋は自身の犯行を否認している。
正確に言えば、初めは覚えていないと犯行を否定し、途中から手を下したかもしれないと犯行を認める発言をし、最終的には何者かに操られて自分の意思ではないと言い張ったのだ。
しかし、状況証拠から志島洋が志島佳代を殺害したのは明らかであり動機不明のまま量刑を言い渡されることになった。
「…お兄ちゃん」
面会時間は二十分である。
志島朋美は、その限られた時間の約十分間も沈黙と咽び泣きと嗚咽で使ってしまった。
半年ぶりに見る兄の面相はひどく痩せこけ別人のようだと朋美は思った。
この半年間、朋美は、朋美の家族はぶつけるべき対象のない怒りを抱えながら悲痛の日々を暮らしてきた。
愛すべき大叔母が無残に殺された事件である。
愛すべき兄が起こしてしまった殺人事件でもある。
明るい兄だった。
幼い頃、なんでも信じてしまう純粋な妹に他愛のない嘘を吹き込んで家族をいつも笑わせていた剽軽な兄だった。
兄は嘘つきだったけど、それは皆んなを楽しませるための嘘だった。
妹の朋美にとって兄の洋は人が好きで笑う事が好きで、そして笑わせる事が大好きな兄だった。
泣きじゃくる朋美を見て洋も泣いていた。
泣きながら、ごめんごめんと何度も言っていた。
胸が張り裂けるような、胸が押し潰されるような無慈悲な雰囲気に包まれる面会室の隅で記録を取っていた留置係員も、思わず目頭を押さえた。
面会時間も残り十分を切ったころ、ようやく朋美から泣き声以外の声が漏れた。
その声は涙でかすれ切っていた。
「どうして……どうして大叔母を」
殺しちゃったの。
「俺じゃない。……俺じゃないんだ」
洋も涙を堪えて、喉を絞るように言葉を発した。
「朋美……本当に、俺じゃないんだ。全部、パピヨンファイブがやったんだ」
涙が一瞬止まる朋美。
「パ…」
ピヨンファイブ?
なんですのん?それは。
パピヨンファイブ?それは、なんですのん?
朋美は洋が口走った謎の言葉を思わず鸚鵡返しで応えようとした。
しかし、涙の痕が喉に絡まった朋美はドレミファソラシドのラの音で「パ」と言ってしまった。
息が詰まるほどの悲壮感につつまれた面会室に響いたラの音の「パ」は強烈に呑気だった。
朋美が発した綺麗なラの音の「パ」を聴いた洋は何故か、オムツを履いた裸のハゲたおじさんの頭に咲いた花が「パ」と開いた時の音だと思った。
そんな事を考えてはいけない。
今はそんなふざけた事を考える場合じゃない。
ちょっとだけ笑いそうになったのを洋は必死に耐えた。
しかし、オムツを履いた裸のハゲたおじさんが頭から花を咲かせたまま無表情で、ちょっとだけ左右に揺れるのを想像してしまった洋は反射的に奥歯を噛んだ。
奥歯を噛んで笑いを堪えた。
揺れるな!
揺れるなおじさん!
朋美は自分が思わず奏でてしまった綺麗なラの音の「パ」を無かったかのようにスルーしようとしたが、奥歯を噛み締めて小さくぷるぷる震えている洋を見て、え?笑ってるの?と思った。
そう思ってしまったら、もうおしまいだ。
伝染した笑いを朋美は太腿をつねって耐える。
洋は奥歯を噛み締めながらぷるぷる震えていた。
朋美は太腿をつねりながらぷれぷる震えていた。
「時間です」
そう告げた留置係員の声も震えていた。
⇩⇩別の視点の物語⇩⇩