どうでもよいんだけど はるか昔のようにも感じる東京五輪の話
去年の7月に書いていた東京五輪の話。
アップするのを忘れていた。
東京五輪が7月23日に開幕した。1年延期、無観客、新型コロナウイルスの感染拡大で東京都が緊急事態宣言を出す中での異例の開催となった。開催をめぐり国民の世論は割れたが、開幕してテレビが連日、日本選手の活躍を報じる中でムードは変わりつつある。反対の態度を表明していた人が活躍に拍手を送ると、賛成派からは批判の声があがるなど、まったくもって、最近の世相を反映するような事態にもなっている。
私自身は以前から五輪の競技を観戦することは大好きだけど、IOCおよび五輪の運営方法には批判的だった。それはスポーツ競技会というよりは、五輪をパッケージ化した広告商品に仕立て上げ、選手をコンテンツとして取り扱うような姿勢に違和感があったからだ。
また、日本の自治体と国が招致活動をするたびに「反対」を心の中で表明していた。その理由は、何らかの「儲け」を期待してなりふり構わず招致競争して、定量的な基準ではなく定性的な基準で、開催国が決定され、その会計は不透明で、当初の計画からはみ出したお金を開催国の国民が税金として負担することになるからだ。
さらには、公共事業としての期待を背景とした招致が、はしたないと感じてもいた。1997年に2004年のアテネ開催が決まった頃から、永久にアテネで開催すれば良いと、仲間内では話していた。
そんな思いを持っていたので、東京五輪の招致は失敗すればよいと思っていた。さらに今回は、賛成票を集めた理由がそれだとは思いたくはないが、「アンダーコントロール」などと平気で話す人が進める事業にとても賛同できないということもあった。
というわけで、私は五輪の結果はニュースでチェックもするし、ライブで競技を観戦してガッツポーズをすることもある。でもどこかもやもやしているのだ。
また、そうした私の態度には私怨のようなものもある。私にとっての最強のスポーツである野球がぞんざいに扱われることへの不満である。
サッカーについては、IOCがFIFAに「フル代表でなくて、年齢制限をしていただいて構わないので何とかご参加いただけませんか」と懇願しているように見えるのに、野球については「どうしてもやりたいのなら、MLBの選手を参加させたり、新たな施設を造らなくてすむようにしたり、ルールも少し変えたほうがいいかもよ」などとかなり高飛車に構えられ、野球がIOCにそこをなんとか、とすがりついているように見えるのだ。それでも、野球は次の五輪では競技として採用されない。
などと考えつつ東京五輪を眺めている。
どうにもまとまらない。岡目八目的に感動できる種目だけに注目している妻の姿勢がうらやましくもある。