コノシロなれずしの作り方【感想など】 〜三重県伊賀市音羽 佐々神社の神饌〜
三重県伊賀市音羽のコノシロなれずしシリーズ、最終話です。
今回は音羽の皆さんとの会話の中で気づいたこととか、かねてから疑問に思っていたことへの考察などを書こうと思います。
はじめに佐々神社の歴史を簡単に
まず基礎知識として佐々神社の歴史に触れておきます。
佐々神社は、滋賀県との県境付近に位置する里山、伊賀市の音羽(おとわ)にあります。簡単にご飯が炊ける土鍋「かまどさん」で有名な長谷園伊賀本店のすぐ近く、と言えばピンとくる人も多いはず。
平安時代の書物「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう」に記載が見られるほど歴史ある佐々神社ですが、創立がいつなのかははっきりしていません。
数々の伊賀地誌には、佐々神社の出自についておおよそこのように書かれています。
その後江戸時代を経て、明治期になると6つの神社が佐々神社に合祀します。合祀された神社の一つに「八雲神社」という社がありました。
このしろ祭りは、かつて佐々神社境内にあった八雲神社の例祭行事でした。合祀ののち佐々神社が例祭を引き継いだ形になります。
八雲神社の祭神が「ヤエコトシロヌシノミコト」であったことから語呂が合うコノシロが選ばれたのではないか?という説もあるようですが、その辺ははっきりしていません。
この時点で佐々神社や音羽に興味を持たれた方のためにMAPを貼っておきます。
疑問1:なぜコノシロをつかうの?
伊賀でコノシロのなれずしが作られていると知って、まず思ったのは「なんで内陸の伊賀で海の魚??」ということでした。ここからはいくつかの疑問点を、音羽の方々のお話や書籍の情報をもとに考察してみました。
あくまで素人の妄想ですのでご了承のうえお読みください。
コノシロはこんな魚です
コノシロはニシン科の海魚で、成長段階で呼び名が変わる出世魚の1種です。
一般的にシンコ→コハダ→コノシロと名称が変化します。(呼び名は地方により異なる)小さいほど値段が上がる魚で、シンコ、コハダは握り寿司でお馴染みですね。
伊賀は内陸で海に接しておらず、海魚のコノシロを調達するのは大変だったはずです。滋賀と接しているのだからフナを漬けてもよさそうなのに。なぜコノシロを選んだのでしょうね?
評判が良くないコノシロ
そんなコノシロ、やや評判が悪いのです。
ひどい言われよう…泣
小さい頃コノシロを食べていたと話す70代の義母も、小骨が多く食べづらい魚だったと言います。
ただ、これらの風評が伊賀の農村でも周知されていたかは不明です。
縁起がいいねと言われるコノシロ
一方で、コノシロは縁起の良い魚だと言われることもあるようです。
書籍には以下のように書かれています。
漢字で「鰶」(魚へんに祭)と書くため、祭りに使われたのでは
出世魚だから縁起がいい
佐々神社に合祀された八雲神社の祭神が「コトシロヌシ」で、語呂が良いから
若干後付け感はあるものの、魚へんに祭とは神饌にうってつけじゃないか、と素人な私は思います。
なにかと都合がいいコノシロ
コノシロはさまざまな面において都合が良かった、ということも言えそうです。
脂が少ないのでなれずしに向いている
大型なのに安価で手に入る
伊勢湾の河口付近によく見られ、地域性が強い
最寄りの海(伊勢湾)でよく獲れるうえに、サイズが大きくなるにつれ価格が下がるので手に入れやすかった。なれずしに向いていた、というメリットがあります。
ご馳走への執念
音羽のYおばあちゃん(84)がこんなことをお話しくださいました。
「父も母も、祖父母も、こんなご馳走はないと言うてたわ」
「普段はお頭付きの魚なんて食べれなかったんや」
音羽を含む旧阿山町の民俗を書き記した阿山町史に「普段は小型の川魚を食べていた」と書かれているように、戦後すぐの時代まで海の魚は滅多に食べることができないご馳走だったようです。
冒頭でも触れましたがすぐ隣に滋賀があるので、淡水魚を漬けることもできたはず。
でもやっぱり!海が遠かろうと、多少縁起が悪かろうと、お頭付きの海の魚が食べたい!という想いの方がまさったのでは、と想像しています。
その想いを叶えてくれるのがコノシロだったんじゃないかなー。
疑問2:300年も続いているのはなぜ?
昔は三重県内のいたるところで神饌としてのなれずしを作る文化はあったようですが、現存しているのは音羽と伊勢の2ヶ所しかないようです。
伊勢が残るのはなんとなくわかる気がする。伊賀はなぜ…??
音羽のみなさんにこの質問をしてみると
「それなんさ、それが分からんのさ」
一様にこのような答えが返ってきますが
一緒にコノシロを漬けている時にFさんが漏らした一言
「誰もやめるって言わんかったからと違う?」
まあ、そういうことだよね。でもなんでやめるっていう人が出てこなかったんだろう?謎は深まるばかりでした。
楽しかったらから?ちょっと違う気がします。
「正直、当番が回ってくると憂鬱よ。失敗したらどうしようとか」(Fさん談)
そうですよね、プレッシャーありますよね。私なら悪夢を見そう。8年ぶりに当番が回ってきて、前回の記憶も朧げで。ご飯がちゃんと炊けた時の、Fさんの心底ほっとした表情が印象に残っています。
こればっかりは昔の人も変わらないんじゃないだろうか。ご馳走を楽しみにしている村人みんなの期待を背負っているわけですから、今より荷は重たいのでは。
「やめる」と言えない仕組み
私は各地の里山をたびたび訪れていますが、音羽含む円柱地区はどこを見ても人の手が入っていて、本当に美しい景観が保たれています。
ずっと眺めていたくなるほどですが、ふと頭をよぎるのは「草刈り、めっちゃ大変そうやな」ってこと。実際どうなのか音羽のみなさんに聞いてみました。
「景観計画の対象区域に入っているから助成金が出るけど、それでも大変なことに変わりはないよねえ」なんて話していた中、誰かが発した一言
「皆んながやっとるのに、自分だけやらんとか無理やで」
それって真理じゃない?なれずし漬けるのも同じじゃない?って、後から思いました。
なれずし作りに置き換えると、8グループが順番ずつ当番を受け持つ年番制度って「やめます」と言いにくい(というか言えない)仕組みなんじゃないかな。
みんなでずっとバトンを回しているのに、自分だけ「ちょっと今回やめときます」って、言えないですよね。
仮に年番の誰かがやむをえない理由で参加できなかったとしても、5世帯が集まっているから他の人がやってくれる。総代もちゃんと見にきてくれるから問題はない。他の組の方もヘルプに来てくれるだろう。
あと、年番が回ってくるのが8年に1度というのも絶妙な間隔のように思えます。
例えば毎年、もしくは2〜3年に1度とかだったら、負担が大きすぎてギブアップしてしまいそう。
逆に10年以上のスパンだったとしたら、自分なら綺麗さっぱり忘れてしまうだろうな。結局この道のスペシャリスト頼みになってしまって、その人がいなくなったら伝承が難しくなるだろう。
要するに、43世帯くらいを保ってきたのが良かったのかもしれないね。
また、特定の家だけで継承されていたとしたら、後継がいないなどの理由で途切れる可能性はかなり大きくなります。
音羽のコノシロなれずしが300年も続く理由の1つとして、
「今回はお休みしまーす」と言わせない年番制度と、
無理なく伝承していける氏子の世帯数を保ててきた
というのはあるんじゃないかと想像しています。
保たれる世帯数
先ほど「氏子の世帯数を保ってきた」と書きました。
43世帯という数字だけ見ると過疎地なのかなって思いませんか?私は思ってました。
でも、音羽の方々は「ぜんぜん過疎じゃないよ〜」と仰います。
音羽は丸柱地区という、伊賀焼の窯元がたくさんある地域にあります。
聞くところによると、43世帯のうち5世帯が陶芸を生業としており、その全てが移住者なのだそうです。また、陶芸家でなくとも音羽の景観に惹かれて移り住む方もいると言います。
今回ご一緒させてもらった年番でも3世帯が移住者の方で、皆さん毎年コノシロを美味しく食べているそうです。
このように、なんとな〜く43世帯前後が保たれてきた、のかな。
音羽のことがお好きですよね
色々と話を聞く中で、いいエピソードだなあと思ったお話がありました。
音羽には音羽城という城跡があります。中世の山城で、城主は音羽氏、城戸氏など諸説ありはっきりしていません。
ある時、音羽城へのアプローチとなる山道に桜を植えたのだそうです。
ところが行政から「史跡に勝手に木を植えたらダメ」と通達があり、せっかく植えた桜は別の場所に植え替えられました。
これだけのエピソードなんですが、城好き息子と共に100を越す城跡を巡ってきた私は感動を覚えました。
お城の管理は自治体によって差異があります。
観光客を意識して整備しているところ、昔の雰囲気を壊さないように手を入れているところなどなど、城廻りに慣れてくると「こういう想いがあって、こうされているのかな?」と感じられるようになってきます。(あくまで主観ですが)
その一方、残念ながら関心を向けられず放置されたままの城跡も少なくありません。名のある武将のお城でも然り。これは行けばハッキリと分かります。
それを思うと、音羽城は地元の方々に愛でられていて最高!
桜を植えて、草を刈って、多くの人に来て見てもらいたいんだろうなあ。
コノシロを漬けるのも、お祭りも、草刈りも。
淡々とやられているようで節々から地域への誇りが滲み出ていましたが、音羽城の桜のエピソードも同様に愛を感じます。
なんだかんだ、皆さん音羽がお好きなんでしょうな!!
番外編:津市芸濃町萩野のコノシロなれずし
三重県内には音羽のほかにもコノシロのなれずしを作る地域があります。
三重県津市芸濃町萩野(はいの)という集落では、平成の終わり頃まで「ブサン講」と呼ばれる宗旨の神饌としてコノシロのなれずしが作られていました。
柚子の葉を使い、コノシロを背開きにするなど、漬け方も音羽と似ています。
しかし残念ながら10年ほど前に途絶えてしまいました。
芸濃町出身の知人に当時を知る人がいないか当たってもらうも見つからず、芸濃町総合文化センターの郷土資料館にもこれ↓しか情報がなく、、音羽と違って資料が少ないため、調査が行き詰まっていました。
ところが2023年の年末、ブログのために写真でも撮っておくかと萩野に立ち寄った際に、畑仕事をする94歳のおばあちゃんからブサン講とコノシロずしについて話を聞くことができました。
萩野については別記事で取り上げるつもりなので今回は詳しく書きませんが、おばあちゃんが仰る萩野のすしが途絶えてしまった理由だけ書いておきます。
萩野は100戸ほどの世帯があり、人口減少が原因ではない。また、音羽よりずっと伊勢湾が近く、コノシロの入手は音羽より簡単だったはず。
でも若い世代がやりたがらない、というのは勿論ある。
ですが、1番大きな要因は
コノシロを準備してくれてた魚屋さんが廃業した
これに尽きるそうです。
かつて萩野にあった辻鮮魚店では、コノシロを仕入れ、さばき、すしを漬ける家まで配達し、塩漬けまでしてくれていました。
平成に入り店主が亡くなったことで廃業、息子さんは違う仕事をされており、コノシロについても伝承されなかったようです。
おばあちゃんは言います。
「辻さんやないとコノシロはさばけへん。他の魚屋にはできん。塩漬けもしてくれへん。だから、辻さんが無くなったのが1番大きいな。」
なるほどなあ。。
漬ける人や神事のことばかりに意識が向いていたけど、なれずしのことを熟知しており、100匹以上のコノシロを調達し、さばいて塩蔵してくれる業者さんがいるというのも生命線の一つなんですね。
音羽では「四季の里まつもと」という料理屋さんがこの役目を負っておられます。その前は違う魚屋さんだったそう。コノシロの入手について柔軟に対応してきたのも音羽のなれずしが続く要因の一つかもな、と思ったエピソードでした。
結び
この辺で、伊賀市音羽のコノシロなれずしシリーズを終えようと思います。
皆さんもぜひ佐々神社のこのしろ祭りに足をお運びください。コノシロずしは氏子の方々に配られるので見学者が頂くことはできませんが、神様にお供えされたコノシロずしや赤飯を見ることはできます。
この記事を参考にご自分で漬けてみるのもいいですね!
私は挑戦しようと思います💪
また次回、三重県のローカル発酵情報をお届けする日まで、さようなら👋
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