短編小説「人の証」
…ああ…意識がはっきりしない。
自分でもどこに向かっているのか、わからない。
ただ、途方もなくゆっくりと、ただ歩を進めている。
周りには、奇妙な姿をした存在がうろついている。
彼らの目は虚ろで、生気のない体で何かを求めてさまよう姿は、まるで操り人形のようだ。
記憶は一切なく、どうしてこうなったのかは思い出せない。
ただ、異様な飢えだけが体中を支配している。
突然、風に乗った微かな匂いに刺激を受けた。
途端に、制御不能な衝動が全身を駆け巡った。
欲しい…生きた肉が欲しい。
いや、そんなことは思っていないはずだ。
しかし、体は勝手に方向を変え、動き出す。
よろよろとした足取りで、匂いの方向へ進んでいく。
匂いの先には、人が倒れていた。
嘘だよな…やめてくれ…
だが、もはや自分の意思では止められない。
飢えが理性を押しのけ、本能だけが前を向いて進ませる。
倒れている女性は意識こそあるものの、足に酷い傷を負い、もう歩ける様子ではないようだ。
「ウウウウウ」 (もう近づくな…)
もう、声もまともに出せなくなっているようだ。
女性の目が恐怖で見開かれている。
彼女の瞳に映る自分の姿が、どれほど恐ろしいものか想像もつかない。
しかし、体は少しずつ女性に近づいていく。
周りの者たちも同じように彼女を取り囲んでいる。
そのとき、女性の左手で何かが光った。指輪だ。
突然、俺の中の何かが呼び覚まされた。
『もう、せっかくなんだから、毎日つけてよね。大切な証なんだから』
その声が、頭の中で反響する。
誰の言葉かはもう、思い出せない。
だけど、大切な記憶がよみがえった。
俺は…人間だった。そう、人間なんだ。
その瞬間、体を支配していた異様な飢えが、激しい痛みに変わった。
しかし、その痛みが俺の意識を保ってくれる。
女性に群がろうとする他の連中を見て、咄嗟に体が動いた。
「ウウウウ!」
俺は、隣の奴に襲い掛かり、地面に押し倒した。
そいつは俺を振り解こうと、必死にもがいている。
俺はこいつを抑えるので精いっぱいだ。
他の連中は俺らのやり取りなど見向きもせず、女性に群がってゆく。
「ウウウウウウ…」 (頼む、逃げてくれ…)
ふと、自分の左手を見ると、薬指の根元がきらりと光った。