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短編小説「一音惚れ 後編」

俺は学校帰り当然のように、彼女の演奏を聴きに来るようになっていた。

毎日、同じ時間に同じ場所。
彼女の後ろ姿を見つめながら、美しい音色に耳を傾ける。
そんな日々が続いていた。

しかし、季節が変わり雨の日が多くなってくると、彼女は晴れの日でも姿を見せなくなってしまった。

秋が深まり冬が訪れても、彼女は現れなかった。

落ち葉を踏みしめながら、何度も土手を訪れた。
でも、そこにあるのは冷たい風と、寂しげに流れる川の音だけだった。


やがて、そんなことも忘れかけていた頃。
新学期が始まってすぐのことだった。


再びあの音が聞こえてきた…。


風に乗って運ばれてくる懐かしい音色に、俺の心は躍った。

あの場所に着くと、そこには変わらぬ小さな後ろ姿があった。
長い髪が風に揺れ、金管楽器が陽光で輝いている。

俺はいつものように少し離れた場所で自転車を止め、彼女の演奏に聴き入った。

彼女は相変わらず俺なんかには気づかない様子で、ただひたすらに演奏に没頭していた。
その真剣な姿に、俺は思わず見惚れてしまう。


日が落ちかけてきた頃、彼女は演奏を終えた。
ゆっくりと立ち上がり、楽器をケースにしまおうとする。

その時だった――

彼女が、こちらに気づいたのか、急に振り向いた。

やっと見られる…彼女の顔――
でも俺は、反射的に目を逸らした。

そして、俺の体は自転車のペダルを強くこいでいた。


堤防を降りた頃、ようやく自分の行動を悔やんだ。

彼女がどんな子なのか知りたい…。
話してみたい…顔を見てみたい…。
何のために…なんであの場所で…。

なのに、なぜ俺は…。
左の胸が熱く痛む。

ああ、この感覚は、きっとそうだ。
たぶん俺は、顔も知らない彼女のことが好きになってしまったんだ。

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