2024/06/10 「ムダ」のすすめ
おはようございます🙏
「サタデーお寺ジオ」
ほぼ毎週末の深夜、「サタデーお寺ジオ」で(配信アプリ「ラジオトーク」から)ありがたいお経とお話を頂いております。
昨日はお題目について、のはずが大きく外れたようで、話題はコスパ・タイパ偏重の現代に警鐘を鳴らす(!)内容に。
大意をつかむと、法事に参加した高校生に説教するという内容でした。
お題目「南無妙法蓮華経」を唱えてすむなら法事・葬儀はいらないというコスパ・タイパ偏重の現代っ子らしい話しっぷりに、お上人がマジになってしまったそうです。ならば、サッカーもゲームしてないで最初からPKで勝負を決めればいいというのと同じ理屈になる、おかしいじゃないか?というものでした。
たしかに、その前の回で配信4周年記念特集があり、弟さん(この方もお上人です)が商標登録済みの「死の体験旅行」になぞらえて、法事の時に故人についていろいろと参列者に思い出してもらい、想いを致していただくということも話していましたね。そのワークで法事の8割は終わりですよ、あとの2割は私どもが読経して法事は終了です、という意味の事を話しておられました。
「ムダ」の効用
私なりの感想です。電車に乗ると時々、目の前に座る人や隣の人のスマホが目に入るのですが、たいがい、ゲームかドラマ鑑賞をしていますね。移動時間が退屈で「ムダ」なのでしょう。
一見無意味に見えても時間の一分一秒たりとも「ムダ」なものはありませんし、「ムダ」にすると一度きりの人生もったいないよ、と思うのです。
では、私は何をしているかといえば、降車先の天候や乗り継ぎをチェックしたり、Xやnoteで絶えず表現して発信するという、ゲーム・LINE勢からしたら「なんだこやつ?」的なことをしています。元を正せば山登りも好きで、山行記を残したり日記をつける等してきました。パソコン通信に手が届くようになってから、私は情報を発信することに目覚めてしまいました。その頃から新聞投稿が載るようになっていった時期と一致します。
他の人から見れば私が発信していることはやはり「ムダ」の域を出ない自己満足かもしれません。でも、伝わるからやめられないのです。
サタデーお寺ジオの話題に戻ると、私もコメントをつけたのですが、
「ムダって(ものは)ないんですよね」
というものでした。
私にとっての表現活動のネタにもなっている自分の障害や失敗談ももしかしたら、多くの人にとっては「ムダ」かもしれません。
コスパ・タイパ偏重の現代が払う対価
でも、時間を空費する(お上人は時間を節約して浮いた時間で世界を変えられるのか?という問いも発していました。私なりにいえば浮いた時間は暇つぶしと課金に空費されるのが関の山でしょう。)ことや、ムダに課金に応じることは、価値観の違いかも知れませんが、見方を変えれば同じ金を払うなら寺社や(国際)慈善団体に寄付することが少しは、世界のためになるのではないでしょうか。寄付や喜捨は仏教では成仏のきっかけとして尊重されるそうです。
成仏してからではどうにもならない(ご先祖様はこの世に残った子孫をいつも近くで見守っている、ともいいますがそれは置いておいて)ではなく、今生きているこの世界をよりよくして、自らもイキイキと生きられることが後生の成仏の秘訣と捉えてよいのでしょうね。
「ムダ」の効用・再び
誰かのためにもなるのであれば、それはそれでもはや「ムダ」ではないと思うのです。コスパ・タイパ偏重の現代といえば、人と人の縁すらマッチングアプリとかという効率的な手段で合理化されつつありますね。葬儀も直葬なるものまで出てきたり、ますます「ムダ」を味わい尽くす機会がなくなりつつあり、寂しい限りです。
ちょっとでもうしろばかり振り返りがちなら即座に、おまえは目が後ろにあるのか?とやられかねないのも悲しいかな、現代の特徴でもあります。センチメンタルすら許されないのだからたまったものではないです。
極限まで「ムダ」を突き詰めると、それは表現活動に秘められた、著者達の声なき叫びになるのかもしれません。そこに耳目を傾けるとおそらく、自分とは何を切り捨てて生きて来たのだろうと、ゾッとする瞬間もあるかも知れません。実は表現しながら、そうして共感してくれるときが来るのを密かに私は待っているところがあります。
結論として、やはり人生には「ムダ」も必要ではないでしょうか。
2024/06/10 ここまで