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2024/07/12 西域の馬の絵
おはようございます🙏
SPEEDのMy graduation思い出す度に不謹慎な替え歌が脳裏をかすめます。
《人はいつか死にゆくさよなら》
まあ、私は聖職者ではありませんが人は生まれた以上いつか死にゆくという宿命を思わざるを得ません。その間に生きているという時間があるわけです。
前置きが長くなりました。亡父の10年にわたる闘病生活の始まりについて、ふと思い出す絵があります。
大病院の外科、ICUそばの家族待合室に平山画伯の一枚の絵がかかっていました。タイトルはたしか『西域の馬』。青を基調として一頭の駈ける馬が描かれています。いろんな人達が来ているのは想像が付いたのですが、額の中に十字架が描かれた絵もテーブル席にさりげなく置かれています。
私たち一家も12時間にわたる父の受けた肝臓癌摘出術が終わるのを待っていました。最初は昼に最上階のレストランで残りの一家で食事をいただき、それから長丁場でした。
待合ロビーはある意味修羅場でもありました。取り乱した人が家族に抱えられて入ってきたりして、他人事ではありません。ここをいつも思い出すと、あの替え歌が私の脳裏をかすめるのです。遅かれ早かれいつか人は死にゆく。生きていることでそれまでの猶予があるだけで。
最初の大手術から余命五年と告げられ、それをクリアすると次の五年だったのですが、さすがに見立て通り10年超えはありませんでした。
それまで執刀医のいた病院から紹介される形で終末期病院へ移ることになったのですが、亡父も肝性脳症で判断能力がかなり落ちており、本人は元気なのが傍目に悲惨でした。腹水で入院中にもお見舞いに行くと、看護師に食らいついていた若い患者さんを目にして、思わず西洋美術のモチーフのひとつ、「死の舞踏」を思わずにはいられませんでした。生き急ぐ生というのもあるのです。
打ち明け話にはなりますが、私もひょんなところから目をつけられ職場で冷遇され始めた当座、同業者だった亡父は陰になり日向になり私を応援していました。仕事に家庭に孤軍奮闘していた妹にしてみればそれが面白くなかったらしいのです。納骨の日、お上人は「お父様を頼ろうとばかりしていませんでしたか、霊山浄土に渡れるように祈っていましたか。」と私の目を見据えて語りかけるのです。葬儀から納骨までの手はずは葬儀社との交渉から母と妹が私に知らせず整えていたのです。物心両面の支えを失った当初、私はしばらく心の整理が付かなかったことも時々思い出します。
妹にしてみれば私が手はずを整えたのよ、という矜持があったのでしょう、私が私的にお上人を訪ねたことを失礼と呼んでいました。しかしながら、いまでは妹は婚家の義母についてせわしく、父の法事はもっぱら私と母(母の頭の中では実家同じく長男が施主となる)が参列しています。
先日、早いお盆で9回目のお盆でした。あの絵を眺めてからそんなに経ってしまったのかと時の経過に驚きます。それはちょうど、私自身の精神疾患との闘病生活と重なってきます。その間に職も変わりました。上の姪ももうすぐお酒も飲める年齢です。おじいさん(私の亡父)のようにお酒に飲まれるような飲み方をしないか若干、今から心配ではあります。 そこまで元気のある子ではなさそうなのでひとまずは心落ち着くところがあります。
2024/07/12 ここまで