働けることとは激しい被承認欲求
こんばんは。今日はいきなりアドラー心理学風ですが、それについて語るわけではありません。
リツイートされてくるものを眺めていると自称働きたくても働けない方々が、「一生遊んで暮らしたい」(という主張が私には一種の矛盾を感じさせるのですが)というのに私は違和感を覚えます。
矛盾というのは予め書いておくと、根源では生きたいというのにその逆を(と伏せ字をします)主張しがちな人々だからです。
ついでにこの場を借りれば、この種の人々をネタに誹謗中傷する人々は、コピーアンドペーストの略語を称して「元いじめっ子ほど家庭を持っていたりする」と言ったりします。
反論すれば、DVで児相のお世話になった挙げ句家庭離散する人も多いですし、子種は散々な末路をたどったりしていますから、それでもいじめで人を不幸にした人々が幸せかというと、そうは言えないとも私は思います。大人になっても見知らぬ大人と知り合いになれば大人のいじめを繰り返す性根だからです。そんな人でも家庭を持てば一人前扱いするのですか?善良に生きる人々に散々反省もなく迷惑をかける手合いに……。
現象だけを見て紋切り型を語るとそれが真実の衣を着て歩き出すことに危惧を覚えますし、何ら疑問を持たないネット界隈の人々が巡り巡って歴史を繰り返さないか、私は恐れを抱いています。
誤解を招かないように前置きが長くなりました。
つまり、息をする限り望むように、人は生きている限り働きたいという欲求があると私は思います。これは、私のリカバリーストーリーと関係する所もあります。私自身が、働く父や叔母達を見てきて「ああいう立派な人間になりたい」と思ったものです。
しかし、それは終身雇用の崩壊という時代の境目と、自身の持病の悪化に伴い、敢え無く叶わぬ夢となったように見えたのです。
人を使う管理職は無理でも、先日の記事通りバックヤードで「縁の下の力持ち」ならばできる、それを証明したかったのでした。就労移行支援(当時)はそれをかなえる手段です。人によってはそれはA型・B型作業所である場合もあります。
その根源には、生きることを諦めない、誰かの役に立ちたい、そうした気持ちや望みがあるのです。対価がなくてもボランティア活動であってもその気持ちに沿っている限り尊いものではないでしょうか。逆に対価としてある金だけを目的にするなら、それこそ主客転倒だと私は思います。
今日は宵の早いうちにツイートで、ただいま全国自治宝くじの季節ですね、(カネ一本で上流階級に食い込もうとする)成金には世話人が必要です、という世俗の一般のお話をしました。私自身下の方の階級なのですが、文句を言うつもりでつぶやいたわけではありません。
たしかに、結婚とかを境に配偶者の高い方の身分に引っ張られてそれを子孫に残す、子孫に残させようとするという傾向も存在します。それは人に認められる方がいいに決まっています。無視されたり蔑まれたりするよりはいいに決まっています。
ただ、私が「働きたい」のは認められたいからという気持ちから来ているのと同様に、由来するのと同様に、そうした垂直上方移動を志す人々を私は蔑む者ではありません。この国の今の憲法にある精神どおり、それが全うされる方向に進んでいるかどうかの現実問題は別にして、幸せを追求する権利は妨げられてはならないと私は思います。
人から認められたいという気持ちは、生来持って生まれてきた「生きたい」という気持ちから派生してくるものではないでしょうか。
長くなりました。ここまでお付き合いいただきどうもありがとうございます。