面従腹背/君子豹変
部活で、あるいは女子の花園に黒一点置いて
「ダラダラしているんじゃないよ!」
吹奏楽部の定期演奏会が終わって学校に戻り、昇降口で女子同士独特のダベリング(おしゃべり)モードに入っているところに先輩格の女性から一喝があった。それでも表は従っても心の中では舌を出す、彼女らはそうしているように見える。
だいたいだが、学年によって役割分担があるようで1年が面従腹背、2年以上が君子豹変と相成る。観察していると、出世魚のように役割は変わるのだが元を正せば一人の人間、一個の個体である。
卒業・入学を繰り返し本性隠しては出して
出世魚のように役割は変わるのだが元を正せば一人の人間、一個の個体である。特に女性の場合は娘時代から就職、結婚、出産、育児、子離れ、閉経、更年期と男性と違いめまぐるしく役割が変わる。
しかし、期待された役割を演じているために
「ええっ、この人はこんな面もあったのか!」
と驚かされることもままある。
このように女性は、男性は、こうあるべき、というラベリングに於いても、女性に向けられる理想像は男性に対するよりも厳しいものがあるようだ。SNSをのぞいていると、その役割分担に精神的に耐えかね様々な精神疾患を発症している女性達も散見されるようになった。
つまり、それまでの先輩後輩の関係という鉄板の(?)関係性はSNSによって裏側が暴かれている格好なのだ。実を言うと私の、発達凸凹(発達障害)な姪の一人も若くしてそうした分担に耐えかね、学校を転々として今度は受験に挑んでいる。
私の妹(姪たちの親)も、私自身(最初に断って置くが私は男性である)が義務教育の学校時代を通して過酷な環境に苦しみ抜き、ストレス脆弱性により統合失調症を発症している姿を十分に見ている。姪たちには苦労はさせたくない、だから自由にさせたい、私と妹の亡父みたいに頑固な親ではなくて、そう思って行動しているのだろう。
亡父も、四半世紀にわたる正規雇用環境の悪化に耐えかね障害をきたして、非正規雇用で障害者雇用を勤めている私を見て許してくれただろうか、いや、父の目があるからではなく自身の人生を生きなければならない。私にとって働き社会復帰しているというのが社会との接点を保つひとつの大切な価値である。
それは、それまで保守的な職場(まるで村役場のようなところ)で人格を無視され今の病気を発症し給料にまで手をつけられ経済的な自由まで奪われてきた果てに退職した経験もあるからだった。他方、加害者に目を向けていくとやっぱり、という観察結果も出てくる。次のセクションではそこに目を向けていきたい。
その前に、職場の保守性ということに私の経験を開陳したい。
保守的な職場とは具体的には、一年でも1ヶ月でも先なら先輩に傅かせる。後輩がどんなに優れていようともが表向きの原則だった。
本音ではその人自身ではなくその人を推した人に右顧左眄し、推した人物次第で先輩を足蹴にしてもいいという「立派な」例外則を持った論理破綻著しい職場だった。私の母も、私の退職日前に荷物を片付けに行ったとき物理的に狭隘な職場をみて、今の障害者雇用先に入っていれば闘病をはじめとしてこんな回り道や苦労はかけなかったのにと言っていた。もっとも父のいた職場に混ぜてもらっても良かっただろうに、それもできなかったのは次に述べる父の個性が災いしたからと思われる。
それもこれも生前、私に「役所を飛び出したら大やけどするぞ」といっていた父の無理解と無関係ではなかった。父だって同業者だったから多少は睨みを利かせてくれていたことに感謝はしているが、当時の職場の人々は「我が亡き後は三年喪に服せ」に従うわけもなく次々に私に襲いかかってきた。私の場合、長男ゆえ人に頼ることは罪と教え込まれ協調性を押し殺してきた。
現代、時代は協調性重視へと大きく舵を切った中、私はついていけない。
帰宅のタクシーがくるまでの間、パワハラ上司が母と二人きりになる時間を探して断られていた。今思うと本当に言語道断な人達の中で闘病しつつ我慢してきたものだった。
つまり40代で病んでも資格武装してヒラ並みの仕事しかない所に、誰かのコネで(言っちゃったよ……。)きて仕事のティップスを入れ知恵された後輩に追い抜かれていくという劣悪な環境だった。
いざ社会人あるいは主婦は加害者経験者
さて、そうして首尾良く卒業しその前に、いわゆる就活で内定をもらった人達のその後を、妹の場合を参考にして「現代版女の一生」を考察していきたい。
(以下、ダッシュで始まる段落はAIアシスタントに出してもらったアイデアです。)
- 現代版女の一生を考える際には、結婚・出産や仕事といったキャリア形成の観点からもアプローチすべきだと思います。例えば、現代の女性にとっての理想的なキャリアとは何か、またどのような制約があるのかを考えてみるといいでしょう。
たとえば、一度退職すると二度と正社員で同じ業界に戻りにくい。表向きは育休というもののリカレントするなかで戦力外通告に近い扱いを受ける場合がほとんどで、それどころか評価されるのは本人の資質はそうだがバックアップする勢力が存在する事情もある。ほとんどは子どもを抱えたまま共稼ぎの非課税ラインを気にしながら非正規雇用として進学費等をまかなわざるを得ない。やっぱり夫方か妻方の親戚からのバックアップ体制が整っているのは一部の名家の流れだったりする。
- 現代版女の一生を描く際には、男性との関係や社会的地位に焦点を当てることもあります。たとえば、男女格差が存在する中で女性はどのような課題に直面しているのか、どのようにしてその課題を克服することができるのかを探求すると、新しいアイデアが生まれるかもしれません。
結局新しいアイデアを待つまでの間に男女格差が家庭の貧富格差として不可逆的な垂直移動で降下していくのは、世界のどの諸国をみてもたとえばOECD白書にもあるとおり避けがたい現実だ。
- 現代版女の一生を見る際には、個人の幸福度という視点も重要だと思います。家族・友人・自己実現といった面で、女性がどのように自分自身を満たすことができるのか、検討してみましょう。
昔の歌で、狭いながらも楽しい我が家、なるものあった。あの頃は高度経済成長期の話で、所得が倍増する、女性が社会進出しなくても(却って昔は社会進出が悪でガラスの天井から上に上げてはだめだ、という風潮すらあった。)旦那の稼ぎでやりくりしないと恥をかくような時代すらあった。バブル期までは誰でも思いのまま自己実現できたが、それ以後のことは皆さんが現在知っての通り、富める家はより富んで貧しい家はそれなりに、という具合だ。
- 現代版女の一生は、文化や宗教、歴史によっても大きく異なるかもしれません。様々な角度から解釈してみて、ここから何か新しいドラマや物語が生まれるかもしれません。
この広大な世界で特にヒジャブ着用義務とかのイスラム圏だと女性に対する風あたりは強く、跳ね返すのは命がけである。それ以外の地域でも先ほども使ったように(実力のみならず明示的なコネクション次第だが)ガラスの天井を打ち破れという国もある。たとえば北米のように。その文脈で言うと、世界中が女性の抑圧を維持する方向から変化しつつあるといえないか。ある意味ではコペルニクス的転回をもたらすかも知れない。
- 現代版女の一生を探求する上で、クオリティ・オブ・ライフの視点も重要です。たとえば、女性が「幸せ」と感じるために必要な環境や経済的・社会的なバックアップについて考えることで、新しいアイデアが浮かぶかもしれません。
少なくとも今現在、この国のこの体勢では女性の「幸せ」の追求についてインフラは脆弱だと言わざるを得ない。精神的に自立している人々、意識の高いと呼ばれる人々は経済的に安定している場合もままある。
それ以外の層では親の子育ての失敗ゆえに自分はスポイルされたという説やそれを繰り返さないといいつつ良いロールモデルが視野に入らない発想であるため同じ事を我が子に繰り返す(自分さえ「救われれば」いいというロールモデルゆえに)説など、惑わされて社会の進化が損なわれている節もある。それは、彼女たちの罪ではなく、それらの説を広めた個人・団体が免れ得ない因果関係に発するものと言わざるを得ない。
つまり虐待家庭の形成プロセスそのもの
世によく言われるのが卑近な言葉で「虐待連鎖」である。余談にはなるがあるブル新が「ヤング・ケアラー」なる概念と用語を広めた所、今度は某政権第二党が自党ポスターにそれとなく盛り込んでいて、失笑ものだった。そこまでしてカルトの信者を増やしたいのか。弱者に取り込み卑怯のそしりは免れまい。
さて、そうした「ヤング・ケアラー」とならび、一部の自称医師(いまは活動をやめているらしいがあのブル新記事で分かった。上記の選挙ポスターもブル新も同根か。)が広められたのが「虐待連鎖」だったと思う。
名指しは極力避ける。学校の先輩後輩問題は、家庭内に敷衍すると家庭内の不和という意味の一部の自称医師が唱えた形に当てはまってしまう。
いや、むしろそれが心地良くて自ら進んで無意識にその形を選んでしまうし、そうでもしないと親のせいにでもしないと気が済まないことになるようだ。アメリカで言うと安楽死キットを提唱し実行した某医師のような邪悪さもある。
「ヤング・ケアラー」を推す政党と、虐待連鎖説を広めた個人・団体はどう見ても、全く関係がないようには見がたいところがある。どちらも足抜けさせない、しようものなら精神的に追い詰めてつなぎ止める、という恐怖の植え付けを説に内包させている。
言い方を変えれば、制度化されたカルトなのである。
これ以上言葉をきわめることは現時点では私にはできない。これだけは書いておきたかった。
“My name is Zapata!” 歴史は繰り返す
Who are you?
My name is Zapata!
(映画「革命児サパタ」から。一度は皇帝を倒した主人公が独裁者の椅子に座り、迎えた若者の名前もまた……。)
ここまで学校から職場・家庭までライフサイクルを書いてきたが、この文にも終わりがあるように人生にも終わりは来る。果ては、彼女らは老人会でどう振る舞う気なのか。やはり仮面舞踏会よろしくペルソナを使い分けるのか。
男性なら良いおじいさん、なのだろうが男性が女性よりも多く生まれてあぶれる時期もある。意地悪ばあさんといっても意地悪じいさんとは聞いたことがない。
いずれ男性は事故や疾病で数が減り(自然の摂理。たとえばイヌが多産なのは淘汰される数を見越しているからと想像できる。)、女性の方が数として多く残る。イージーワールド、意地悪ワールドなのである。
そうした中で運命は従容として受けるという老いの生活を迎える人が多いという意見も聞いた。女性とて不老不死ではない。なかんづく身体的な特性からすぐに落命しないまでも男性より長患いして苦しむ人達の声を、SNSからも闘病記として拾うこともできる。
女性だから男性を足蹴にしてしあわせなのか?ここまで考えてみるとあながちそうでもなさそうだ。きつい人というのは、一朝一夕にできないとは言いがたい。それは前述のとおり、若くして人格者(これは家の富貴とか先天的な環境も多大に関わる)の人もいると思えば、ひょっとしたらまだ2,3年後を来て成長が遅れているのではないか(成長が時期相応に期待されている程度には芳しくない)という人もいる。無論、一朝一夕にできないというのは生まれ落ちた家庭の貧富格差がそのまま出てしまうからだ。
いまやパワハラとかモラハラというとおり、精神的苦痛や被害の当事者達には男女の別は不適当と思われるので、女性だから/男性だからという点は無視しても年相応、不相応の人格の発達がバラバラ、凸凹な社会があるということがもっと認識されてほしいと私は思います。これも貧富格差、個人の自己責任だけで片付く問題ではないでしょう。
今回はここまで。読んでくださりどうもありがとうございました。
この手の話はいつかまた、続けたいと思ったら続けます。
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