霞が関に由来する国民的「呪縛」への小考察
オリコンの「羽生君結婚」報道見ました。
やっぱり家父長制がなくなっても「入籍」がしっくりくる業界もあるのだな、と(遠い目)。
しかもエンジェルナンバーか11時11分発表。あと陰陽道よろしく縁起のいい日を選ぶ等、儒教的な伝統を重んじている面も。
明治維新後の反動で息吹き返す儒教、現代も。
戦に出る前の武将が八卦で占っていたという足利学校。
四書五経に陰陽術。一時期の中断を経て息を吹き返す。
戦国時代以来江戸の安泰約270年。その終わりから今はまだ約150年、あと120年以上経たないと現代日本人の安泰もまた目を覚まさない。黒船だけでは無理だったか。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」
そんなに見たこともない幕藩体制が恋しい人達は面倒な髷を結って脇差しもって毎日登城すればよろしい。(もっとも今そこにあるのは城ではなく皇居だが。)
よく見ると皇居を避け地下鉄はちょうど霞が関で一点に交わるかのように路線網を広げている。貴族・華族の子孫が集まる「霞会館」もそこだ。維新後、幕藩体制での士族や公家や戦功で割り当てられた貴族・華族。現行憲法で禁じられる栄典の世襲も事実上続いているように見える。即ち官界然り。
もう記憶が風化していると思うが、地下鉄サリン事件も霞が関周辺で起きた。三菱重工ビル爆破事件みたいに、その国の中枢部を狙った犯罪には変わらない。ロンドンの同時多発テロみたいだが上の二つは「狙い撃ち」である。
社会から疎外されたと思った人々が「窮鼠猫を噛む」的行動に出る。調布駅近くの電車内で「ジョーカー」の格好で大量殺人を試みて捕まった男性もいる。社会への恨みという点がいずれのケースにも通底してないだろうか。単独犯か組織的犯罪かの違いに似て。ますます更生の余地が狭まり、ますます再犯も凶悪化する。暴力は如何なる場合も許されないが社会の息苦しさだけはいつまでも問題にされずに来ている。
ネット上起源で「上級国民」なる言葉が池袋のプリウス事故以来、独り歩きしている。この記事の先頭で触れたとおり、ステルスな見えない身分制がその「上級国民」という言葉を裏打ちしている。棚に載せられた餅(現行憲法のプログラム規定は努力規定)という「真実」に、いつになったら人々はおおっぴらに議論を交わせるようになるだろうか。腹のうちに収めているうちは何回国政選挙をやっても今の構図は崩れない。
これこそ江戸時代の先祖以来の「学習された無気力」という腹芸なのである。司馬遼太郎に語らせれば
武芸でも「相手に決して勝ってはならない」といった、一種の美学になっている節すらある。根は深い。一代、二代で片付くまい。