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2025/01/21 統合失調症者のバウンダリーについて:一当事者として思ったこと
おはようございます🙏
「精神病への偏見」、これは自己像に対しても周囲から向けられる視線に対しても、内と外からの両面からバウンダリー(境界線、区切り、自他の境目)の問題としても立ち現れます。
バウンダリー
当事者自身の心の中
心の声です。病名がついたらもう身動きが取れなくなる、そうした恐れから通院も、服薬も、入院歴も周囲にはひた隠しにしてきました。
実際、長い前職で身動きが取れなくなりました。コミュニケーション能力云々と難癖をつけられて。それまでうまくいっていた。クローズ就労だった。
まあ、ノーマリゼーションや社会復帰といってもたぶん、うつ病寛解の人と統合失調症寛解の人に対する視線は同じとは言えないでしょう。私も病の名前で人を差別して見ていた所もあり、自分に限ってと身勝手なことを考えて行動していた節があります。そのツケが回ってきたとも思いました。
ちょっと話を逸れます。伏線としてですが、結婚したことはありませんけど結婚も精神病罹患もその人の本質ではなく、「属性」だとします。ドラマのタイトルで『結婚に逃げるは恥だが役に立つ』でしたでしょうか、一つの属性に移行することは見ようによっては恥ずかしくもあり世間的には役に立つことかもしれません。
話を戻すと、ならば、精神疾患や統合失調症という診断名に自らの属性を見いだす事もまた、認めたくないことではありますがオープンにすることで新たな世界が広がることになります。これは体験しているのでそうだと自分について話すことはできます。
武士道よろしく「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」、別の属性に飛び入ってみる勇気も悪いことではないでしょう。
周囲の偏見に思うこと
オープン就労というと、自らの弱みと強みを認めて伝え、その上で周囲の配慮をお願いするといった流れもあります。
それでもなお、私の障害について失念している同僚もいてあるとき、私が近くにいるのを知らず「頭のおかしい人について」話をしていて、私の姿を認めてしばらく沈黙していたのを覚えています。あの気まずさといったらありません。
障害を持って障害と生きる
周囲の偏見に対し健常者を装う
ある週末の夜、演劇『ドードーが落下する』を観劇した当事者の仲間からポストを頂戴しました。
ネタバレするので、引用サイト内にある「とある事情」は何か、明言を避けておきます。
ただ、行きがかり上、書いておこうと思っていますがその仲間は、加賀屋ハウスさんがこの劇を見たらどんな感想を持つだろうなあ、と語っていました。
その仲間はただ、大勢の中、雑踏の中、健常者のふりをせざるを得ない限界の自分、それを許容せずに排斥しようとする周囲の眼、カミングアウトしたいけどできない苦しみについても語っていました。
では、私はどうかというと、前節「当事者自身の心の中」の中で独白したとおり、ひたすら健常者の中にかじりついた末に振り落とされざるを得ず、当事者としてのリカバリーに至るまで苦しんだというところがあります。
それでもなお、私にはひとなかでヘルプマークを手に歩き回る勇気がありません。その意味ではあのポスト仲間の「健常者のふりをせざるを得ない限界の自分」が痛いほど分かるのです。
オープンで働き、暮らすまで:障害者雇用と地活
このようにして、私は長い前職を休職・退職して、親戚の勧めもあり障害者手帳を取得して就労移行支援事業所に就職することになります。
本筋からズレますが、一口に障害者雇用といっても特に精神障害の場合、他の身体障害、知的障害の場合と異なり間口が狭いです。これは障害特性による原因だけによるものではないと思います。平たくいえば社会の偏見と無理解です。障害について当事者目線の発信をもっとしていくのがいいとは思いますが、いかんせん私がここで語ろうとごまめの歯ぎしりです。
当初、私はストレートに障害者雇用を目指したのですが、ノウハウがありませんでした。一カ所、面談までいったところがあったのですが持効薬つまりデポ剤(注射薬)を受けてますか、という的外れな質問というか偏見で返され落ちたことは良く憶えています。配慮事項も弱みも強みもつかんでなかったので、仕方なかったかもしれません。
約一年に及ぶ就労移行支援事業所での仕事ではサブの仕事を任されました。どこへ行っても私にはリーダーとか長のつく仕事はありません。特性上仕方がなかった。その代わり、いまもその頃の仲間の顔と名前をふとしたときに思い出すぐらい、それまでになくミスマッチのない職場だったと記憶しています。
その頃から、担当医の先生の勧めもあり障害者手帳と同時に取得した自立支援医療証を手に、地元の地域活動支援センターに利用者登録してピア活動も始めたのでした。最初は、周囲の眼を気にしながら通っていました。
まとまらない、まとめたくないまとめ
障害、とりわけ精神障害といえば当事者間でもそのとらえ方は十人十色ではないでしょうか。自己開示の範囲からバウンダリーの引き方、周囲の偏見とのせめぎ合いなど、その中で認めたくない自分と認めても良い自分とのせめぎ合いなどもあります。
それは障害を持っているから経験しやすい葛藤ではありますが、健常者であっても隠したいことや公にしてもいいことがあるでしょう。似たところはあると思います。
その意味では私の亡父は私の障害について否定的な人の一人だったと思います。障害に起因する生きづらさから、長い前職を辞めたいというと「今飛び出すと大やけどする」とか「障害年金をもらって妹の家に転がり込むか」とか無理解も甚だしい人だったことを憶えています。
父亡き後、同業者に睨みを利かせる存在がなくなったこともあり、職場による私への狡猾な尻尾をつかませない攻撃は激しさを増して手を緩める事はありませんでした。逆をいえば役所は後ろ盾を失えばそんなところです。
障害者雇用を目指して長い前職を後にしたのは生きる方便でした。リカバリーに至る道のりは人それぞれだと思います。少なくとも私についてはそのような形でした。
まとまりませんが、闘い押して押し返され流されるまま、というのが私のやり方だったような気がします。気がつけば家庭も築けないほどの年齢になってしまったのが悔やまれるところです。
2025/01/21 ここまで