正義の行方
158分という時間だが長いとは感じなかった。
1992年に起きた飯塚事件。2人の小学生が犠牲となったこの事件について、まず当時の捜査員が語る捜査の状況。動機もわからず、直接の証拠も無い、状況証拠のみなのだが、元警察官は被疑者が犯人であると確信し、1ミリも疑っていない。彼らの話を聞いていると、それが真実のように思えてくる。そして地元新聞の警察担当の記者が語る事件報道。警察発表を報道する彼も、被疑者が犯人であると確信しているように見える。ようやく被疑者の弁護人が登場する。弁護人の話によって、この事件の捜査の不自然な点が徐々に見えてくる。被害者である小学生を自家用車での通勤途中に見かけたという目撃者、そのすぐ後の時間に不審な車を見たという別の目撃者。遺留品を捨てたとみられる場所付近での不審な車と男性の目撃者。不審な車というが、小学生を乗せていたわけでもない車をどうして不審だと思い、些細な点まで記憶していたのか。車で通り過ぎた時にその場所に停まっていた車と、その側にいた男性をどうしてそんなにはっきり記憶しているのか。最高裁で死刑が確定した2006年、そのたった2年後に死刑は執行された。被疑者は一貫して無実を訴え、弁護人は再審請求を準備している最中だった。地元新聞のある記者は、この事件の報道について検証取材を始めた。捜査における不審な点が次々に浮かんでくる。警察がこの事件と関連があるとしている過去の事件の遺留品がなぜか発見されるが、発見されるまでに歳月が経過しているにも関わらず、状態が『綺麗すぎる』。袴田事件の『犯行時の衣類』を思い起こさずにはいられない。元警察官は言う。「警察や検察がそんなことを(証拠を捏造)する理由がない」「あの人ら(弁護人)はこっちの言い分をひっくり返したいだけ」。映画はどちらが正しいと言っている訳ではないが、袴田事件について関心を持ってきた私には、「警察や検察が証拠を捏造する理由がない」なんて、全く信じることができないし、自分の属する警察という権力組織をそこまで無条件に信用している元警察官が不思議で仕方がない。それとも信じているのではなく、擬態なのだろうか?