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映画 福田村事件

ようやく福田村事件を観てきた。観に行こうとしていた日に満席で観ることができず、今回はネット予約で席を確保して行って来たのだが、休日のせいかほぼ満席だった。

映画は淡々と始まった。澤田夫妻、福田村の人々、行商人の一行、それぞれの日常が描かれていく。後に起きる事件がわかっているだけに、それぞれの人たちが私たちと同じく日々の出来事に一喜一憂する『普通の』人たちであることが辛い。その『普通の』人たちがどのように加害者となり、被害者となっていくのか。被差別部落出身の行商人も、自分たちは朝鮮人よりは上だと考えていることなどが丁寧に描かれる。だが、朝鮮人に向けたその言葉は、自分たちが部落以外の人たちから向けられる言葉でもあるのだ。
「朝鮮人なら殺しても良いのか!」この叫びは、理由をつければ殺しても良いのか、という言葉に繋がる。関東大震災の後の数日、朝鮮人だけではなく、障がい者や社会主義者などが殺されている。ニーメラーの言葉を引くまでもなく、何か理由をつけて人を殺すことを是とするならば、その理由は次々に広がっていく。どんな理由があろうと、人を殺すことを認めてはならない。ならば、国が人を殺すことになる死刑という制度も、無くなっていくべきなのだろう。
映画の内容に戻す。緊迫感が高まる中、赤ん坊を背負った若い母親がいきなり鳶口を行商団の支配人の頭に振り下ろす。…彼女の夫は本所の飯場に働きに出ていて、避難してきた人たちは口々に「朝鮮人が火をつけた」「本所は全部燃えたらしい」などと言っていた。彼女は夫の無事を祈って神社でお百度参りをする信心深い『善人』だ。彼女の行動原理は、夫が朝鮮人に殺された→だから朝鮮人を殺す、だろう。しかし、実際には朝鮮人による放火など行われておらず、彼女の論理は成り立たない。しかも、彼女が殺したのは朝鮮人ですらない。そして彼女の夫は無事に帰ってくる。
生き残った行商人のうちの1人の言葉、「なんで俺たちが?」は私たちに問いかけている。
どうして殺されなければならなかったのか?
そして、朝鮮人なら殺しても良いのか?

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