Breivikと刑務官 ー葛藤に対する刑務官の高度な対処戦略ー
Prison officer’s coping strategies in a high-profile critical situation: Imprisonment after the 2011 terrorist attacks in Norway
Knut Mellingsæter Sørensen and Berit Johnsen
Incarceration Vol.2(1),pp.1-15,2021 より
2011年にノルウェーで起きた連続テロ事件。多くの死傷者を出した大規模テロが、たった一人の男性によって引き起こされたこと。そのことは少なからず国際社会に大きな動揺をもたらした。容疑者として拘束されたアンネシュ・ベーリング・ブレイビクは、反多文化主義革命を謳い無罪を主張したが、2012年8月23日、オスロ司法裁判所は10年から20年の禁錮刑を言い渡した。刑期が10年経過した2022年、ブレイビクは仮釈放を申請し審理が行われたが、この申請は却下された。ブレイビクは今も最高レベルの閉鎖刑務所で生活を送っている。
ブレイビクも生活を送る「刑務所」は、日本のそれとは様相が異なる。ノルウェーの刑務所は国際的にも人道的であると高く評価され、開放的な処遇を志向していることでも知られている。社会復帰を念頭に置き、段階的にセキュリティレベルを調整することで、徐々に社会生活に近い環境で「犯罪回避的な生活」を維持できるように方向づける狙いがあるからだ。そこでの刑務官の役割は、刑務所の維持管理だけではなく、犯罪からの離脱に向けたサポーターとして、また「一人の人間として」受刑者の尊厳を保護し、支援する存在でもある。両者の関係性も、基本的な信頼関係を基盤としており、こうした信頼関係に基づく刑務所運営は日本でも注目されているところである。
こうした人道的な刑務所運営を「ノルウェー連続テロ事件」は揺るがせたと言ってよいだろう。ブレイビクの犯した罪はあまりに大きく、被害者や遺族の生活に大きなダメージを与えるものだった。社会に強い影響力を持ち、ともすれば世間の厳罰感情を逆撫でする。ブレイビクは刑務所で反省の日々を送っているのか、被害者に心を寄せているのか・・・。社会的な関心が薄れることはないだろう。
この論文で描かれるのは、そんなブレイビクの住まう刑務所に勤務する刑務官たちの葛藤と対処戦略である。
「一人の人間」としての刑務官を尊重すれば、刑務官自身の正義感や犯罪に対する考え方と、職務上求められる感情規則が異なる場合も想定できる。耳目を集めた事件の加害者だからこそ、彼がどのように日々を過ごしているのか注目される上、彼に対する処遇・管理においても失敗は許されない。ブレイビクに対する社会的な批判を肌で感じると同時に、失敗は許されないのだという緊張感は、刑務官自身を追い詰める可能性がある。
論文の主たる論点は、刑務官と収容者の関係性を近づければ近づけるほどに生じる「(感情的な)葛藤」をめぐる問題である。近年、日本の刑事司法も刑務官に対して保安以外の業務として、教育的な働きかけや福祉的な支援を担う存在への変容を求めている。もちろん、日本の刑務所運営は「工場担当制」を導入しており、刑務官と受刑者の間の関係は(受刑者から)「オヤジ」と家族メタファーを用いて呼ばれるような、特殊な信頼関係のもとに保たれてきた。「工場」という空間を指導単位として編成することで、一人の刑務官が複数の受刑者を管理するという体制をとりながらも、学校でいうところの「学級」のような機能を持たせることに成功しており、そのような集団指導における<教師ー生徒>関係を模倣したかのような空間を構成してきたのである。
逆にいえば、「学級における教師と生徒の関係」程度の距離感であるからこそ、可能であった両者の信頼関係、とも言えるかもしれない。学校においても、個別の心理的・福祉的支援は、スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーなどの専門職に委ねることにより、集団指導と個別指導のバランスを保ってきた。集団指導と個別指導のバランスは、児童生徒に対する「平等性」の前では、その危うさを露呈させる。集団を「平等」に援助することと、個人を集中的に援助することは、時に周囲の目には「矛盾」と映るからだ。このバランスが崩れれば、時に「特別扱い」や「贔屓」という批判にさらされ、集団の秩序を保つことは難しくなる。秩序が保たれなくなれば、その先に待っているのは「崩壊」である。
これが学級において生じても「学級崩壊」等の問題になるわけだが、刑務所で生じれば、瞬く間に(逃げ場のない)受刑者と刑務官の生活全てが危険にさらされることになる。「平和な一日」を確実に積み重ねていくためには、秩序の崩壊を招く言動は避けざるを得ない。その点でも、集団管理のプロである刑務官に、教育や福祉的支援に基づく「個を重視する対応」を求めることには、一定の困難性が伴うことを理解しておかなければならない。とりわけ、論文中で描かれるように、大規模テロにより多くの死傷者を出した「耳目を集めた事件」の加害者の収監においては、ブレイビクを「個」として見なすことが、刑務官の高度な感情統制や「犠牲」と引き換えに行われていることを自覚する必要があるだろう。その「犠牲」は、ブレイビクに関する情報から距離を置く、彼の犯した大規模テロによって国家的に生じた「トラウマ」を癒す出来事から距離を置くなど、刑務官の「個人」としての側面が部分的に損なわれているという意味である。個々の刑務官の「幸せ」と引き換えに保たれる「安全」であってはならない。
目指すところは、加害経験の有無に関わらず、誰もが「一人の人間として尊重される社会」の実現であるが、その道のりは遠く険しい。害が生じれば、そこに「害をなした者」「害を受けた者」という線引きが生まれ、後者の場合は、思わぬ形で人生の可能性や夢を奪われたことを受容する過程が必要になる。当事者にとって、自分に害を及ぼしたもの(自分の存在を消したもの)を「一人の人間として尊重」するのは難しいかもしれない。それにとどまらず、見知らぬ誰かが「一人の人間として尊重すること」も許せないかもしれない。そうした思いが、最も身近で加害者を見続ける「刑務官」に寄せられないとは言い切れない。その時、「刑務官」自身も「一人の人間」として尊重されるべき存在であると気づくことができるのだろうか。
論文で示された対処戦略は、高度な福祉国家における刑事政策でこそ、より明確な形で見えてきたものだろう。とはいえ、日本の刑事司法にとっても無関係ではなく、拘禁刑という新たな刑罰の導入に先んじて、(本来であれば)より広く深く議論しておかなければならないはずだ。多くの犠牲者を出した2011年のテロ事件は、まだ終わっていない。ブレイビクが生き続ける限り(おそらく亡くなった後も)、犯罪という問題に社会はどう対処すべきか、そして、その第一線で支え続ける「刑務所」「刑務官」という存在に何を強いているのか、彼らがどのようであるべきか、それを考え続けなければならない。