初恋
たぶん、初恋だった。
ずいぶん自信のない回答だが、確証を持って彼女が好きだったと言える程、強く思っていたわけではない。
入学式に一緒に写した写真。ひときわ目立つ真っ白なふわふわの髪が印象的で、僕はのちに密かなあだ名をつけた。
――綿毛ちゃん、と……
彼女とどんな会話を交わしたのか、どんな遊びをしたのか、全く覚えていない。彼女は一緒に入学を果たしたけれど、一緒に卒業していないから。
などというと、まるで彼女が途中で事故か病気で亡くなったかのようだが、そんなことはない。彼女は生きている。はずだ。きっと、どこかで。
入学して三か月。彼女は僕らと同じカリキュラムを終えて、一つ上の学年のクラスへと編入した。そしてそれから三か月で二つ上に、さらに三か月で三つ上のクラスへと、飛び級を重ね続けて行った。
いわゆる天才だったわけだ。だから彼女は僕らと一緒に卒業していない。僕らが三年かかったカリキュラムを、彼女は九か月で終え、僕らが九年かけて卒業にこぎつけたというのに、彼女はわずか三年で卒業していってしまった。
だから僕が彼女、綿毛ちゃんと同じ教室で過ごしたのはわずかに三か月ほど。それも僕は当時ジュニアスクールの一回生だったわけで、七歳だったころの僕の記憶はもうほとんど彼女のことは覚えていない。
それなのに初恋と思えるのは、このデジタル写真を飽きるほどに眺め、眺めた先にいる綿毛ちゃんに恋心を抱いたんだと思う。それは丁度テレビの向こうのアイドルに思いを寄せるのに似ている。僕の初恋はそんな現実味の伴わない淡いものだった。
こんなことを思い出したのは、引っ越し前に古い荷物の整理をしていたからだ。子供のころの思い出の品、卒業証書や野球のグローブ、家族旅行で行った海で拾った角が丸くなったガラス片、当時大好きだったプラモデル、それらに紛れてデジタルフォトフレームが出てきたというわけだ。
色あせない写真。画面を拡大すると画像がボケてしまう。綿毛ちゃんの真っ白なふわふわの髪は、今もこうなのだろうか? 残念ながらこの小さな画像では、顔立ちまではよくわからない。
はて、綿毛ちゃんの名前はなんだったか? 思い出そうとしても思い出せない。こんなだから初恋と言い切れないのだ。
「キーリ」
「うん?」
「もう休憩にしない?」
恋人のルシア、もうすぐ妻となり家族となるルシアが、部屋の向こうから顔を出した。
昨年末にプロポーズし、挙式は今年の春だ。もうすぐ僕らは夫婦になる。この部屋はもともと僕一人で住んでいて、ルシアと同棲したけれど、小さな部屋なので狭い。そのため僕たちは結婚を機会に、二人の新しい家を選んだ。そのための引っ越し作業中だった。
「何見ていたの?」
「古い写真。僕のジュニアスクール入学のときだよ」
そう言って写真のデータを渡す。ルシアは目を細めて微笑んだ。
「キーリはどこ? あ、待って。当てるから」
僕が幼い自分を教える前にルシアはそう言って僕を制し、小さな子供たちが映る画像を眺めた。
「んー……この子かな?」
ルシアが指さした先には、僕がいる。こんなに小さい僕でも、見間違えることなく探し出してくれたことがなんだか嬉しかった。
「正解」
「そうだと思った! キーリの目元変わってないんだから。すぐにわかっちゃったわ」
僕は微笑みルシアの肩を抱いた。ルシアは僕に持たれつつ、データ画像に目を落としていた。
「この子、かわいい」
「……」
綿毛ちゃんだった。たった三か月の同級生。名前すら思い出せないその子をルシアは指さしたのだ。
「ね、この子、名前なぁに?」
「それが覚えてないんだよ。この子はいわゆる天才でさ。飛び級して僕たちより六年先にジュニアスクールを卒業してしまったんだ。一緒の教室にいたのは、三か月くらいで」
「えぇ! すごい! テレビの取材とか受けたでしょう?」
「……どうだろ?」
考えてみればそうだ。六年も飛び級した並外れた天才だ。テレビの取材があってもおかしくはない。だが僕の記憶によれば、学校にそんな取材でテレビが入った記憶がないし、同級生がテレビに特集されたという記憶もなかった。
「小さいころのことだから、覚えてないな。なかったと思うんだけど」
「えー? よくあるじゃない。そういう天才少年や天才少女をテレビで特集して、どのくらいのIQがあるのかって調べるやつ」
「でも本当に覚えていないんだ。まぁ、彼女の名前すら覚えていないくらいだから、単に忘れてしまったのかもね」
もたれてくるルシアの頭を撫でて僕はそう言った。
不思議と彼女が初恋だったとか、密かに綿毛ちゃんと名付けていたのは言えなかった。後ろめたいからじゃない。気恥ずかしいのかもしれない。
「それにしてもかわいい子ね。白髪? ベニトアイト人からしら?」
外銀河系の惑星ベニトアイト。特殊かつ過酷な環境のその惑星で生まれる人間は、白髪という共通の身体的な特徴を持って生まれるという。あまりラズーライト星では見かけないが、全く存在していないわけではない。
「さて、どうだろうね? ラズーライト人だとは思うけど」
綿毛ちゃんと名付けるほど、彼女の髪は白っぽかった。当時それを不思議に思わなかったけれど、今考えるとなかなか個性的だ。だがベニトアイト人ではなかったように思える。銀髪だったのかもしれない。
「そういえば、確か彼女の兄弟も飛び級しているって話だったような……」
「えぇ? すごい天才兄弟だったのね。遺伝子? それとも英才教育の賜物?」
「さぁ? どうなんだろうね」
僕はそう言ったあと、ルシアが手にしたままの写真に目を落とす。
「天才ってのはある意味辛いものだと僕は思う」
「どうして?」
不思議そうな顔をしたルシアに僕は微かな笑みを浮かべて、綿毛ちゃんを指さした。
「名前すら同級生に覚えていてもらえない。一緒に遊んだ記憶もない。もしかしたら遊んだのかもしれないけれど、少なくとも放課後、彼女が僕の家や僕の友達の家にいたこともないし、誕生日会に呼んだことも、呼ばれたこともない。悲しいことだと思わないかい?」
学校で一緒に遊んだ記憶もなかった。放課後や昼休みに追いかけっこをしたこともない。そもそも僕はこの子に話しかけたことがあったのだろうか……
「そういわれると……そうね。とてもさみしいことだわ。どんなに天才だったとしても、どんなに子供が勉強することを望んでも、友達と過ごす時間を作れない子供時代って不幸かも。確かにこの子はかわいそう」
「もちろん、上の世代の同級生とは遊んだのかもしれないけれど。それでも一緒に入学した僕らとそうした思い出の共有がないって、とても悲しいよ」
綿毛ちゃんは、その後どんな人生を送ったのだろうか?
その天才ぶりを発揮し、どこかの有名大学で教授にでもなっているのだろうか?
それとも一流企業の第一線で、何かのプロジェクトの中心人物となって仕事をしているのだろうか?
交流のない僕には、彼女のその後の人生など想像がつかない。ただ、それでも元気でいてくれたらいいなとは思う。
「あたし、子供が生まれたらのびのびと育てたいな。少しくらいおバカだっていいわ。人間として豊かに成長できるならば、それでいい」
ルシアはそう言って僕を見上げて微笑んできた。僕も微笑みを返し、さらに彼女を抱き寄せてルシアの額にキスをする。
「僕もそう思う。いっぱい遊んで、いっぱい勉強して、いっぱい褒めて、時には怒って、人生を豊かに歩めるよう子供を育てたいって思うよ」
そう言って写真データの入ったパネルの電源をオフにしようとしたとき、ルシアはポツリとつぶやいた。
「この子って、綿毛のような髪ね」
思わず僕は笑ってしまった。
幼いころ、このデータを眺めてつけた、僕だけの秘密の呼びかけを、ルシアはいともたやすく当ててしまった。
もちろん、この瞬間もルシアは僕が初恋の人につけた呼び名を知るはずもない。
「なによ! 笑うことじゃないじゃない。ふわふわしてかわいいでしょ?」
「そうだね。いや、僕もそう思ったんだよ。まさかルシアも同じことを考えるとは思わなかったんだ」
「綿毛?」
「そう」
僕らは自然と微笑みあい、口づけを交わした。見つめあい、また少しだけ笑いあう。
「コーヒーを淹れてくれるかい? 休憩にしよう」
僕の初恋は幻のようなものだった。この写真が残っていなければ、彼女が実在していたのかどうかすら、自信が持てない程だ。けれども確かに同じ教室に孤高の天才少女はいたのだ。
今彼女がどんな人生を送っているのか知らない。
けれどもどうか願わくば、彼女の人生に幸あらんことをと僕は願う。
初恋 -完―
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