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10 殺戮のBB
一瞬で場の空気が変わった。従業員の娼婦たちが、決まり悪そうで不安そうな視線をビアンカに送る中、一人だけがビアンカに訝る視線を送りつけていた。
「あら? あなたバートの……」
そう言ってしげしげとビアンカを見回す女は、極上の部類に属していた。
高級娼婦・睡蓮華の女主人であるニーナ・レクシィーだった。
デッドシティでは入手すら困難であるだろう、上質なシルクで作られたドレスは、鮮やかなワインレッド。足元まで覆い尽くすが、胸元は大胆に開かれて、その白い胸元を飾るのは本物のダイアモンド。煌びやかな美しさは、シャンデリアの光を弾いて、より一層輝く。
そしてゆったりと上に纏め上げた髪は、漆黒。余程手入れをよくしているのだろう。こうしているだけでも綺麗な髪質とわかるほどだ。
都市は三十代前半くらいなのだろうが、円熟した色香がその視線一つですら伝わるほどだ。
そしてこのデッドシティの権力者の一人でもある。
「どういうことかしら?」
「すみません姐さん。実は」
「あなたには聞いていないわ。BB…確か、ビアンカ・ボネットさんと言わなかったかしら?」
こんな下っ端の使い走りの名前を憶えているなんて恐れ入ったねと思いながら、内心の動揺を綺麗に隠してビアンカは笑いかけた。
「その通り。はじめまして、姐さん。バートには金を借りに来ただけだ。もう用はないから出て行くよ。中には入れないと何度も言われたけど、部屋が吹き飛ばされて、行くところがなくて、宿を借りる金もないからバートに借りに来たんだ。もう二度とここには来ないよ。っていうか、二度とバートには金を借りないから」
こんな詐欺まがいの借金をするくらいなら、売春婦まがいのことをしたほうがマシだと思ったくらいだった。
「困るわね、どんな事情があろうとも、この奥は客と従業員だけしか入れない決まりごとなのよ?」
「だから、武器は後ろの兄さんに預けてあるし、もう二度と来ないから、勘弁してよ」
この女主人が一言でも「目障り」と言えば、否応なく路地裏に連れて行かれるだろう。どんな事情があろうとも、主人の命令には絶対服従だ。下手に逆らう様子を見せれば、殺されてもおかしくはない。
下手を打ったと焦るビアンカだったが、次の瞬間に顔色を変えた。
店の扉を乱暴に開け放つ男が、やってきたのだ。
様子がおかしいというものじゃない。どれほどのハードドラックを一度に摂取したのかわからないといった表情だ。目は血走り、口はだらしなくあけられ、涎をこぼしていることにすら、気にも留めず、手にしていた箱のような何かを振り上げた。
不審者の乱入に、娼婦たちは逃げるように駆け出した。
「逃げろ!」
そう叫んだビアンカは、とっさに振り返って用心棒の男に預けたナイフホルダーを引ったくるようにして奪う。そしてホルスターからナイフを引き抜いた。
それはビアンカの本能的な感でしかなかったが、貧困の貧しい土地で生まれ育ち、奪うために殺し、金のために殺してきたからこそ身についた本能。
ビアンカはためらわずに、ナイフを投擲していた。ナイフは直線的な軌道を描き、腕を振り上げた男の喉に突き刺さる。その衝撃で男は倒れ、そして投げつけるはずだった箱を、自分の腹の上に落とした。
そしてビアンカがニーナを抱きしめるようにして、床に押し倒した直後、轟音が鼓膜を叩き、そして爆風が体中に吹きつけ、次いで割れたシャンデリアが天井から落下してした。
「うあぁっ!」
自身があげた悲鳴すら聞こえない衝撃の中で、ビアンカは痛みに悲鳴をあげた。
時間にして十秒足らず。
そして幾多の悲鳴が重なり合った。
「姐さん!」
爆風が収まると、混乱と恐怖が吹き荒れた。しかし今の爆風で耳をやられたビアンカにはひどくその声も遠い。
「姐さん!」
誰かがビアンカの肩に手をかけて、その痛みにビアンカは絶叫する。しかしその悲鳴すら遠い。
誰かがビアンカに向かって何かを叫んだ気がするが、それすらも聞き取れないまま、ビアンカは気を失った。