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09 ロード・オブ・ヘブン

 逃げるな! そう言われたような気がする。
 起き上がると走り出す。スタングレネードの効果はそう長くない。咄嗟に目を瞑り、耳を抑えていれば、効果は半減している。
 イヴァンは走った。途中、細い枝がイヴァンの頬に当たって擦り傷を作る。
 それに構わずに走る。見えない足元の不安定な岩場に、途中足元をすくわれかけて転びそうになりながらもイヴァンは走った。
「小隊長!」
 エーレは一人の身柄を拘束していた。しかしそんなエーレの背後に、ふらつきながらも襲い掛かろうとしている男がいた。
 イヴァンはそのまま走って背中から男を蹴りつける。当然エーレも身柄を拘束されていた別の男も、みな巻き添えになって地面に転げた。
「うわっ!」
「いてぇ!」
 敵の数は二名。二人とも黒を基準とした登山用の恰好をしている。しかし本当の登山家ならば、この場所が国境検問所であり、ロード・オブ・ヘブンだということは熟知しているはずだ。
 間違いなく違法に国境を越えようとしている男たちだとわかる。
 国境警備隊と鉢合わせをした際に抵抗するため、あらかじめ銃を用意していた。明らかに交戦する意思を持った武装勢力とみなすことができる。
 イヴァンはアサルトライフルを構えた。
「動くな! 動けば撃つぞ!」
 右足で倒れた男の背を踏みつける。その上で銃口を定めた。
 夜の闇の中で覚えた緊張はいつしか恐怖へ変わり、そして恐怖から興奮へ変わっていた。
「……おまえなぁ」
 どこか呆れた調子のエーレが起き上がる。そう言えばエーレもろとも蹴り飛ばしたということに、ようやく思い至る。
 申し訳ないという気持ちもあったが、今更遅い。
「す、すみませんでした小隊長」
「説教は後からにしてやる。そいつを拘束しろ」
「了解!」
 イヴァンは拘束用の簡易ベルトを胸のポケットから取り出した。まさか着任早々使うことになるとは思ってもみなかった。
 しかし拘束するとなると、武装を解除することになる。どうしたものかと戸惑っていると、エーレがアサルトライフルを構えて振り返った。
「早くしろ」
「は、はいっ!」
 エーレが抑え込んでいた男は、最初から気絶していたのか、はたまた先ほど倒れ込んだ衝撃で頭でも打ったのか、身動き一つしない。
 すでにエーレによって後ろ手に拘束されている。
 それを確認したのち、イヴァンはアサルトライフルから手を離し、スリングをぐるりと回して銃を背中側へ回した。
 観念したのか男は抵抗しない。エーレ一人ならばと思っていたのだろうが、イヴァンが来たことで抵抗しても無駄だと悟ったようだ。
 そして簡易拘束バンドで男の手を掴んで後ろ手に拘束する。
 そこでようやくほっとした。ずきりと胸が痛んで思わず胸を見下ろす。防弾チョッキには銃弾がめり込んでいる。撃たれた事実を思い出し、今更のように震えだす。撃たれたのが顔だったら即死していた可能性が高い。
 単に闇の中でやみくもに発砲した結果、胸に当たっただけだ。そして防弾チョッキを着ていたからこそ、負傷しなかっただけ。それはすべて運がよかっただけ。夜の闇が味方しただけだった。
 白昼よく狙いを定めて発砲されていたら?
 それを思ったら小刻みに震えてきた。
「デーナー?」
「えっ? あ、いや、なんでもないです」
 イヴァンはそう言いながらエーレを見た。
 さすがにエーレは隊長という地位に上り詰めただけある。エーレは冷静だった。状況を分析し、的確に指示を出し、冷静に行動している。イヴァンが最初に空砲を撃ったことで、場所を把握し、敵の背後に回り込むように移動したのだろう。
 やはりエーレは道化のフリをしていても、冷静に物事を見ている。
「小隊長…怪我は?」
「ない。しいていうならおまえにぶっ飛ばされて、肘を打ったくらい」
「す、すみません」
 謝ると、エーレは苦笑するように笑った。
「なに、初めてでこれだけ動ければ上出来だ」
 そう言って、エーレは通信機に手を掛けた。
「こちら第三班、武装した二人組を拘束した。応援を頼む」
『了解、第二班応援に向かう』
 エーレの応援要請に第二班が応える。もうすぐこちらに向かってくるだろう。
 目印の合図にするためか、エーレが胸元に装備されたフラッシュライトを点灯した。闇がいくらか緩和される。
「くそ、いい加減に起こすくらいしやがれ!」
 ずっとエーレに踏みつけられたままだった男が抗議の声を上げると、エーレは凄みを利かせた笑みを浮かべた。まともに見てしまったイヴァンは、思わずぞっとして硬直してしまう。
「あぁ、悪い悪い。俺はおまえらを基本的な人権が保障された人間だと思っちゃいないから、つい忘れていたよ」
 実際のところ、マフィアだろうと亡命希望の密入国者だろうと、最低限の人権は保障されている。
 つまり今の発言はエーレの本音だろう。
 エーレは心底憎んでいるのだ、村を、そして祖父を失った原因であるマフィアという存在を。
 動けないままでいるイヴァンをよそに、エーレは乱暴な手つきで体を反転させ、腕を掴んで無理やり起き上がらせた。
「だが俺がそう思っていたところで、実際には保障されているから安心しろ。ただしここはもうラハーラ連邦国じゃない。ニドヒル独立国だ。おまえらの罪は、ニドヒル独立国の法律で裁かれる。麻薬を避妊具に詰めてケツの穴に押し込む奴らもいるからなあ? 徹底的に調べられるのは覚悟しておけ」
 エーレの宣告にぞっとしたのか、顔を引きつらせているのがわかった。
「俺はそんなことしちゃいねぇよ!」
「してないという確証もない」
 しかしエーレは素っ気なくそう言って、視線の向きを変えた。
 まだ遠いが応援に駆け付けてきた第二班を乗せた車両が近づいてきたようだ。微かな光がちらちらと見え隠れしている。
 第一印象は最悪だった。
 初任地はロード・オブ・ヘブンで、猫馬鹿な上官、バディは入院中で代理バディがその猫馬鹿。挙句に着任早々の夜勤と、不幸続きにうんざりしていた。
 けれどエーレの道化の仮面の意味が、少しわかった気がする。
 殺傷率の高いロード・オブ・ヘブンで、少しでも緊張をほぐすために親しみやすい一面を見せ、そして隊員を細やかに観察している。猫のフリをしながら獣のような牙を隠し、ここぞという場所ではその牙で敵に襲い掛かる度胸も持ち合わせている。
 だからエーレは小隊長として慕われているのだ。
「どうだ、デーナー? これからうまくやっていけそうか?」
 エーレがこちらを見ている。イヴァンは頷いた。
 最悪続きの初日だが、その初日からエーレの本当の姿を見られたのは幸運だった。彼ならば信頼できる。
 この国境を共に守っていける。そう思えた。
「はい、がんばります」
 きっとこれからの一年、こうした事態は何度も遭遇するのだろう。そしてそれらの経験から国境を守る意味を、考えていた以上に大事なことなのだと認識するはずだ。
 この国の安全を守るため、平穏な生活を守るため、そのために自分たちはここにいるのだと。
「いい返事だ」
 笑ったエーレの顔は、犯罪者に向けるそれとは違って、部下の覚悟を感じ取り喜んでいるようだった。
 イヴァンはこれから一年、エーレの元でなら頑張っていけるとそう感じた。

ロード・オブ・ヘブン ―完―
※でももう少しだけおまけが続きます

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