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【愛着・AC 克服記録】Column 5-9 愛の証明 (急編 その7)

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5-9 急編 その7
「価値は不変ではない & インストールされた価値軸を取っ払おう」

3-11. ⑦ 価値とは、「不変」なものではない ― 優先順位は常に変わっている


価値を考える上で重要なのは、「変わらない価値」というものがあり得るのか?ということ。

(ふへん、というと「普遍」と「不変」があるよね。まずは「不変」から)

もう1つ。価値とははたして、値札のように、それぞれに決められた「固有」のものなのでしょうか?


ここではわかりやすく、「衣・食・住」で考えてみます。

一応、値札を付けてみます。
(少なくとも僕はこんなシャツは買わない)

もし、価値が不変のものであるならば、またそれぞれのものが持つ固有の性質であるならば、いついかなる状況でも、それは同じ価値を持ち続けるはずです。

反対に、ここに上げた衣・食・住の優先順位が状況によってコロコロ変わるならば、価値というものは不変ではない、またそれぞれがもつ固有の性質でもない、ということになります。
(「変わらない価値があるのか?」という答えは、後ほど)


例えば、衣服。

薄手のシャツは、夏場は涼しくて気持ちいいけど、冬場は寒くてたまらん。
ダウンジャケットは、冬場は暖かくても、夏場は着てらんない。

上に挙げた2種類の服は、四季に応じて価値が変わっています。
では何が変わったのでしょう?

服が変わったわけではありません。
薄手のシャツは、春も夏も秋も冬も、薄手のシャツのまま。

変わったのは、着る側の我々です。
夏は涼しいものが着たいし、冬は暖かいものがいい。
極めて、移り気で、自分勝手甚だしい。
でも、真冬に半袖着てたら、「おばかさんだ!」って思うでしょ?
価値って、そうゆうもの。


価値の感覚、つかめてきました?
もうちょっと具体例を眺めていきましょう。

コンビニのペットボトルの天然水。
「今日は酒が飲みたい!」という日は、水には目もくれないし。
時には、街頭でペットボトルの水を無料で配ってたりするし。

でも、山奥で3日間さまよって喉の渇きに飢えていたらいたらどうでしょう?
たかがコンビニの天然水でも、1万円、いや10万円払っても、飲む「価値」があると思うでしょう。
飲まなきゃ、死んじゃうんだから。
その時に、同じ10万円を、家賃の支払いには使わないよね。

お家。家という建物は、そのうち述べますが極めて母性的なんです。
いつでも自分を受け入れてくれる。

でもね、家を飛び出して、どこかに出かけたい、仕事をしたい、自立しなきゃいけない、と考える人にとっては、家というものは自分の足を引っ張るネガティブなものになります。

衣食住の間でも比較してみましょう。

ひたすら喉が乾いているときに、「シャツあるよ?」「家で寝たら?」と言われても困る。とりあえず水をくれ。

ちょっと出かけたいときは、シャツがほしいの。ペットボトル1つで素っ裸で街に出かけたら捕まるの。

眠い!眠いと時は、飲み物も服も置いといて、とりあえずお家でぬくぬくしたい…

とまぁ、こんな具合でわかりやすく「衣食住」を見てきましたが。

結局、「価値」がどこに生じているかというと…

2つモノの間に生まれています。

どちらかに、値札のようにタグされているのは見かけの価値で。

本当は、2つのモノの関係性にこそ、価値は横たわっているのです。

これにて、「価値は『固有』?」問題を否定できました。


そうするとね、とある考え方が怖いこともわかってきます。

「変わらない価値」

これは、「変わらない関係性」なので…

私は永遠に変わらないから、あなたも永遠に変わらないでね

と言っているに等しいんです…(まじで怖い)。

ということで、「価値は『不変』?」問題の危うさもわかりました。

変わらなくても構わないなら、不変の価値もありえます。でも、あなたが変わらないからといって、周りも変わらないでいてくれるわけではないんです…

衣食住に限らず、価値ってそうじゃない?ビジネスでは。昔は町工場のネジ職人が重宝されたりしたが、今の時代では低コスト・利潤の追求で、そうゆう人たちは切り捨てられていく。彼らの技術が落ちたわけじゃない。彼らと現代の企業の関係性が変わって、企業側が価値を認識しなくなったんだ。

行政もそう。行政に正の価値を感じる場面は少ない。なにか補助を受けたり、福利厚生だったり、困った時に初めて行政が顔を出す。普段はその価値に「気づけない」。

病院や医療もそう。健康な時には価値が認識できないんだ。病気になって、怪我をして、初めて、そのありがたさに気づく。

歴史的な建造物や書物も不思議です。
それができた当時は、いうてそこまでの価値があったわけじゃない。
でも、その建物や書物が歴史の淘汰を生き残って、「時間の積み重ね」を獲得したことで、価値が生まれているわけです。
歴史的なモノは不変に感じられますが、実は評価する人々が未来に進んで変化するとともに、歴史的なモノそのものの「時間の重み」が変化しているんです。

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3-11. ⑧ 自分の中での価値の比較 ― 『同じ価値軸での比較』と『異なる価値軸での比較』を見極めよう


前の項目では、同じものでも、自分の状況が変わるとその価値が変わる、という話でした。

次は、少し似たものの比較をしてみましょう。

とんかつとステーキ。どっちも美味しそう!

この2つを何で比較するかというと、第一には「おいしさ」です。
今日はとんかつの口だなぁ…。
いや、今日は胃袋がステーキを欲しているなぁ…。

もうちょっと複雑にすると、カロリーとか、昨日の晩はカツカレーだったから、揚げ物はやだなぁ…、とかいろいろ出てきますけど。

自分の中での、わかりやすい価値の比較は、「2つ以上のものを、同じ価値軸上で比較する」です。



一方で…。

ここに、おいしいシュークリームがあります。

このシュークリームに、あなたはどんな価値を感じるでしょうか?
主だったものは、
・これは美味しそうだ!食べたい!
・カロリー高そうだし、太りそう…。食べたくないな。

同じシュークリームが、正の価値と負の価値を持っている。

これは、シュークリームという存在が、正でもあり負でもあるという矛盾を抱えてしまっているのでしょうか?

また、この正と負の価値が同程度ならば、シュークリームは足し引きで「無価値」になるのでしょうか?

ここが、価値の概念を突破できない難所の1つですが…

これは、「2つの異なる価値軸でシュークリームの価値を比較している」んです。

1つ目の軸は、「美味しいものを食べたい = 食欲」という軸。

もう1つは、「きれいな状態でありたい = 美の欲求」という軸。
(もちろん、太ると動きづらいから、という場合もありますがね)

2つの軸は直交しているので、実はシュークリームは数学とかのグラフのように、点としてプロットされてるわけです。

これは、自分の中なの価値軸が増えるほどに立体的になりますが…

人間が直感的に認識できるのは3次元まででしょう。

それ以上は、よくわかんなーい!ってなる笑

大事なことは、シュークリームは無価値=軸が交わった原点、にいるわけではなく、原点とは程遠い部分にプロットされています。

この矛盾の越え方は、そのうち…

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3-11. ⑨ なぜ、自分の中に複数の価値軸が生まれるのか? ― それは、他人と関わらないと生きていけないから


愛情と感謝のスパイラルで自己連続性を獲得して形成された「自分軸」は1本でした。

もちろん、生き物の根源的欲求である「食欲・睡眠欲・性欲」はそれぞれ別の軸になるんですが、自分軸1本の状態では、自分がその時々で一番ほしいものを選択していけばいいので、そこまで問題は起きないんです

↓コロコロ変わった、その時々に必要なものを選べばいい

でもね、人間として生きていくと、必ず自分以外のものと関わらないといけないんです。動物のように、自分が良ければそれでいい、というわけにはいかない(動物だって、群れのこととか飼い主のこととか考えるでしょうけど)。

例えば、先程の「きれいな状態でありたい = 美の欲求」が、比較的内発的であるならば、まだ健全です。
自分がきれいでいたい、それで良い評価を得られるから。
(この状態は、実は全く健全ではないんですが…それはそのうち書きます)


でも、これがあるポイントを越えてしまうと、自分を束縛し始める。
その時、美の欲求は「自分はきれいでいなければならない、なぜならきれいでないと良い評価を得られないから
という、外付けの動機になり、自分発信の欲求ではなくなり、果ては強迫的に自分に働きかけます。

この、自分発信ではなく、外付けの価値軸に自分の生き方がコントロールされている状態が、「他人の価値軸をインストールされた状態」なわけです。

ちょうど、僕の記事で前に書いた、エヴァンゲリオンのようにいろんなものに接続された状態です。それにコントロールされている。


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3-11. ⑩ インストールされた他人の価値軸を取り払おう ― 孤独の中で、生き物であることを思い出す


ノート療法の1つの効果が、インストールされた他人の価値軸を取っ払うことにあります。1つ1つ丁寧に、自分の欲求を蘇生させていく。そして、他人の価値軸に支配され毒親化した理性を浄化していく。

ノート療法をやっても自己否定が止まらないならば、それほどまでに強烈に他人の価値軸・世間や社会の価値軸をインストールされている、と考えていいんじゃないですかね?

あるいは…最後のボスは「自分自身」=「自分で設定した理想」なのかもしれません。

ノート療法の果ては、あらゆる他人が「どうでも良くなる」状態であり、精神的になーんにもない荒野に放り出される状態です。

砂漠のど真ん中で、「あぁ…自分はだめだなぁ」と唱えている。その無意味な行為すらも、主観的に、同時にメタ視点で眺める。そして、あらゆる方向から、全ての物事が心の底からどうでもよくなる。

自分が抹殺していた感情さんが、「いや、そんなんどうでもいいわ!」と反抗できるくらいまで蘇生させる。

もっと直感的な表現をすれば、「人間をやめて。獣に、生き物に戻る

あらゆる人間的・理性的思考を一旦横にそっと置いて、「あ、私生き物だったんだ…」って状態に戻る。

そして、虚無に至る。

自分でいうのもなんですが、よくもまぁその先の解決先がない状態でここまで自分を追いつめられたもんですよ笑

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Column 5【愛の証明】
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