【ジョジョnote】第5部考察 構成編 ジョルノ・ジョバァーナ その③
1-5. 「人を超えたプリンス」
① 悪魔のプリンス [信頼度: B (それっぽい! 推測)]
こちらの作品をご存知だろうか?
これは、かの手塚治虫が1974年〜1978年まで週刊少年マガジンに連載していた、
「三つ目がとおる」だ。
(Wikipedia)
(手塚治虫公式サイト)
さて、第5部がこの作品とどのように関係があるのかというと…
この和登(わと)さんというのは、弱虫写楽を支えてくれていた人なのだが、
三つ目モードになった写楽には「将来の嫁」呼ばわりされる損な役回りを演じている。
大事なことは、写楽自身が「悪魔のプリンス」を自称していることだ。
A. 赤いコンドル
そんな、こじつけな話かよ…
と思われるかもしれない。
そこで、もう少し「三つ目がとおる」との関連について掘り下げてみよう。
例えば、一枚目の画像右・三つ目写楽が持っている赤い槍のようなもの。
これは、「赤いコンドル」という重要アイテムで、
武具というよりは、三つ目族が残した古代兵器のスイッチとして機能したり、
写楽の超能力を発現させたり、という超常的な力を持っている。
…これ、「矢」に似てません?
しかも、写楽くんの超能力発現に関わるとか、古代の叡智が秘められているあたりとか…
これはあくまで推測、妄想の話だが。
プリンス → 三つ目がとおる、という構想の段階で、
赤いコンドルに相当するアイテムを登場させる、という案もあったのではなかろうか?
そして最終的には、第4部で登場させた「弓と矢の秘密・歴史」にまつわる物語という方向で進めたのではなかろうか?
B. 名前の「二重性」
ジョルノという人物を構成する上で、「三つ目がとおる」が原案にある。
この可能性をサポートするもう一つの証拠が、「名前の『二重性』」だ。
ジョルノ考察 その①の末尾で触れた、
「そもそもなぜ2つの名前を持つのか?」という疑問。
この疑問は、三つ目がとおるという視点を加えることで解決できる。
写楽保介と和登さん…
これらは、かのコナン・ドイルが創り出した、名探偵シャーロック・ホームズと相棒ワトソンからのもじりなのだ。
だから、「外国語名とそのもじりの日本語名」という要素をジョルノにも持たせて、「汐華初流乃」「ジョルノ・ジョバァーナ」という2つの名前をもつ主人公が生まれた、と推測される。
C. 髪型のコロネ
そして!
極めつけといいますか…
「まず、そこに着目しない?」という点が、コレ↓
この髪型ですよ。
なんなんだよ、このコロネ。
でも、「三つ目がとおる」という視点でみれば、
「なるほど。ビジュアル的に三つ目だ」となる。
ジョルノがコロネ化したのも、スタンドを発現して金髪になった後だ。
いわば、「ジョルノ、三つ目開眼」といったところか。
この現象は、
「スタンドが発現して、悪の帝王であるDioに近づいた」
「ディアボロ(悪魔)を倒して、次のギャングスターになるスタート地点に立った」
このどちらにも解釈できる。
そしてそのどちらも、悪魔のプリンスであることを意味している。
(「悪の帝王の子ども」と「悪魔の次に王になる人」)
このように、構想段階で「三つ目とおる」という要素をふんだんに取り入れた、と仮定することで、これまであまり注目されてこなかった、名前や髪型についてもある程度納得がいく説明ができた。
② 神のプリンス
さて…ジョルノが持つ「プリンス」性。
これを考える上で、思想的に最も危なっかしいのが、「神のプリンス」という点だ。
よく、第5部について考えるときに、
「ディアボロはイタリア語で悪魔だけど、Dioはイタリア語だと神になる!
これってなんかすごくない?」
というのをネット上でよく見かける。
でも、それだけだったら、「だからなんなんだよ」とも言いたくなる。
しかし、よく考えてみてほしい。
Dio = 神は、ジョルノの父親なのだ。
つまり、ジョルノは、神の子だ。
神の子って…荒木先生の宗教観や第5部の世界観を踏まえれば…
イエス・キリストですよね。
こっちのほうが、断然やばくないだろうか?
そこで、ジョルノのプリンス性の第4段落「神のプリンス」では、
ジョルノというキャラクターが持つ神性・宗教性についてみていきたい。
A. ジョルノの神性 = 創造主としての力
こちらはミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井に描いた、旧約聖書の始まりである「創世記」のワンシーン。
(システィーナ礼拝堂は、ポルポが言ってた教会である)
第5部というのは、ジョジョの中に宗教性、特にキリスト教的特徴が多く見られるようになった端緒だ。
その後、第6部、第7部と、かなり超越的な話が出てくる。
そのような、キリスト教的世界観において、「生命を創り出す」というのはどのような意味を持つだろうか?
ジョルノ考察その①では、生命を創り出すという能力は、女性的性質の名残である、と書いた。
もちろんこれはJOJOVELLERに収録された、荒木先生や関係者へのインタビューに基づいているから、疑いようがない。
ただ、それに加えて、「創造主」という神性も含まれているという推測は、
大きくハズレてはいないのではないか?
いうならば、「生命を創り出す」という能力にも、
「女性的な力」と「創造主としての力」の二重性がある、と僕は考えている。
B. ジョルノの教祖性 = 指導者・導くものとしての力
創造主としての力。
それは、あくまで「Dio = 神」としての性質である。
そこでここからは、「神の子 = イエス・キリスト」としての性質をみていこう。
その前に、軽くではあるがキリスト教を含む西洋宗教を、
すごーーーく大雑把に捉えておく必要があるだろう。
(大雑把であるのを強調するのは、宗教の混み合った話に変ないちゃもんつけられるのが怖いから笑)
長々と、大雑把な宗教まとめを書いた。
なぜこんなことをわざわざ書いたかといえば、
「キリスト教という宗教の宗教観」について考える上で重要だからだ。
旧約聖書的世界観は、超越的な存在としての神を信仰する宗教だ。
一方で、キリスト教的宗教観の根幹をなす新約聖書は、
「人であるイエスが、何を語り、何を行ったか?」
という、言行録そのものが信仰の対象なのだ。
つまり、イエス・キリストを教祖・指導者として信仰する基盤となっているものはイエス自身の発言・行動・思想である。
これらが人に伝播・布教、嫌な言い方をすれば伝染・感化されることが
キリスト教という宗教の根っこの部分なのだ。
(なんか嫌な言い方になってしまった)
そして、話はジョルノに戻る。
ジョルノという人は、まさしく行動や思想で周囲の人々を変えていく主人公だ。
例えば、ケーブルカーでの戦闘の後、ブチャラティはジョルノの仲間になる。
これは、単純に今までのジョジョ、あるいはジャンプで見られていた、
「倒した敵がその後仲間になった!」とは次元が違う。
なぜならブチャラティは、
・ギャングスターになるというジョルノの夢
・麻薬を子どもに流すようなギャングは消し去るべき
という「思想」に感化されたのであり、それを実現しようというジョルノの「覚悟」に共感したのだ。
いわば、ブチャラティはこの時点で「ジョルノ教」に入信したといっていいだろう。
他にも、
・イルーゾォ戦後のフーゴ
「ジョルノッ!おまえの命がけの行動ッ!ぼくは敬意を表するッ!」
・ギアッチョ戦後のミスタ
「最近……気づいて来たが…
このジョルノ・ジョバァーナ……
新入りのくせに…
いつの間にか…
ジョルノの言ってるように…
そのとおりに事が動く…
今の「覚悟」は…ジョルノの「覚悟」でもあった!
それが知らず知らずのうちにオレの心に伝わった…
まるでブチャラティ以上にオレの幹部であるかのように…
オレを動かした」
・スクアーロ・ティツァーノ戦後のナランチャ
「アバッキオは… ジョルノ
おめーのこと 軽くみてるけどよぉ
なにか…
知らず知らずのうちに
おまえの決断する方に動いていってるだよなあ
まるで「指導者」のようによォォーッ」
・ノトーリアスB・I・G戦途中のトリッシュ(スパイス・ガール)
「コレデ「ミスタ」モ「ナランチャ」ノキズモ
元ニ戻ルコトニナル……
シカシ「ジョルノ・ジョバァーナ」
彼ハ不思議ナ存在ダ
物質ニ「生命」ヲ与エルだけデナク……
結局のトコロ…
彼ノ行動ガ
トリッシュの精神をも
成長サセタ…」
(ところどころ不自然なひらがなは原文ママです)
このように、ジョルノには、行動や思想で人の行動原理まで変えてしまうほどの教祖性・指導者性があることがわかる。
これが、ジョルノが持つ「神のプリンス」的性質の本質だ。
C. 名前が持つ「キリスト教性・指導者性」
[信頼度: C (そうだったら面白い!(妄想))]
ここでは、再び「名前」について考えてみよう。
(タイトルはあまり自身がないので、「妄想」の枠に入れておいた)
ジョルノ考察その①で軽く触れた、「Giovanna」だ。
前の考察では、女性名であることだけ触れた。
しかし、このGiovannaという名前も意味を解きほぐすと、
ジョルノのキャラクター像と無関係であるようには思えない。
ヨーロッパ圏の名前は、聖書にまつわる人にルーツがあることが多い。
ポール(Paul)は、イエスの弟子であるパウロに由来するし、
マイケル(Michael)は読んで時のごとく、大天使ミカエルだ。
では、このGiovannaのルーツが何かといえば、
ヨハネ(Johannes)だ。
ユダヤ系の言語では「Jo」を「ヨ」と発音するが、英語圏では「ジョ」になる。
イタリア語ではどうやら発音に引っ張られて、「Gio」になっているらしい。
(ちなみに、ユダヤを意味する「Jedea」もジューディアと読む)
キリスト教においては、「洗礼者ヨハネ」と「福音記者ヨハネ」が特に有名だが、
ここでは「洗礼者ヨハネ」について触れておく。
こちらは、レオナルド・ダ・ヴィンチ「洗礼者ヨハネ」
このヨハネという人物は、「イエスに洗礼を授けた人」として知られている。
当時はキリスト教というものはなかったわけで、
この時代の洗礼というのは、神ヤハウェを信仰する一員として認められるために必要だった。
後のキリスト教的世界では、ヨハネを先駆者・あるいはイエスを導く者として取られている。
とりあえず、このあたりで「ふーん…まぁ指導者感あるな」という気はしてくる。
ですが、僕としては、「名前にヨハネの意味を込めたな…」と感じるのは、
次のエピソードがあるからなのです。
こちらは、フアン・デ・フランデス「荒野の誘惑」
荒野の誘惑というエピソードは次のようなものだ。
これはイエスと悪魔が(禅問答で)戦うエピソードだ。
ディアボロ(悪魔)もサタンが語源なので、
まさに第5部を象徴するような話だ。
第5部を構想する段階で、ここまで考えられていたのか?
結果的にこのような解釈もできる方向にストーリーが進行したのか?
どちらにしても、第5部が単なる少年漫画を超えた哲学的要素が込められていることには変わりないだろう。
D. 「パッショーネ」という組織名の「二重性」
ジョルノ = キリスト仮説を考える上で、忘れてはならないのが、
「パッショーネ」という組織名だ。
これは、ブチャラティの説明によれば「情熱」を意味する。
英語で言えば、パッション(passion)だ。
日常的に使う言葉としても、「パッション屋良」とか、
意識高い人から「パッションを持てよ!」とか、
そんなかんじで使われる。
(特に意図はないが、なんとなくネガティブな用例になってしまった)
しかしながら…
passionという言葉にはもうひとつ重要な意味がある。
それが、「受難」だ。
特に、キリスト教ではイエスが処刑されるまでの一連の出来事を、
大文字の「Passion」で表すらしい。
ジョルノがイエス・キリスト的要素を持つことを考えれば、
この「パッショーネ」という組織が「情熱」と「受難」の2つの意味を持つことは明白であり、しかも物語中では「受難」という要素が全く説明されていない。
推測としては、荒木先生の読者に対する遊び心なのではないか?
「パッショーネって、もうひとつ意味あるんだけど…気づくかなぁ」
みたいな。
そのへんの推測は置いておくにしても。
キリストであるジョルノが、「パッショーネ = 受難」に入団するってのは…。
「イエスが処刑に向かう」ということを暗示しているのではなかろうか…??
たしかに、ジョルノはパッショーネに入団した後、
何度も死ぬ直前まで追い詰められる。
しかし、中でも最大の出来事は…
このナランチャ死亡だろう。
この構図…
ジョルノが磔になっている。
ここは奇しくも、レクイエムに向かっていく直前の出来事である。
僕の解釈としては、ジョルノはここで一端肉体的に死亡したのだが、
(実際にナランチャの魂は戻ってこなかった)
さながらイエス・キリストのように復活し、
スタンド(精神)の先に進むための「矢」の獲得を目指していく…。
まさか、組織名にすら二重の意味を込めるとは…
おそろしいです。
E. 現実世界(ギャング)の王・精神世界(スタンド)の王の二重性
最後なので軽く。
「王の中の王」というタイトルにも、二重の意味が込められているように思う。
1つ目はもちろん「ギャングの王」なのだが、
もう一つ重要なのは、レクイエムを発現したジョルノは、
まさしく「スタンド = 精神世界の王」になったのだ。
この、精神世界の王という点は、奇しくもジョルノ = キリスト仮説に通じることろがある。
スタンド(精神)の王であり、人の心の拠り所となる信仰の頂点に立っている。
まとめ
1. ジョルノの「悪魔のプリンス」という性質は、三つ目がとおるに由来する
(矢の物語・二つの名前・髪型のコロネ)
2. ジョルノの「神のプリンス」という性質は、生命を創り出すというスタンドや、人の行動原理を変えるという教祖・指導者的なところに現れている
3. パッショーネという組織名は「情熱」と「受難」のダブルミーニング
4. 王の中の王とは、ギャングの王であり、スタンド(精神世界)の王
今回は、かなり長くなってしまった…
次回は、「戦う理由」について、ジョルノと他のジョジョ主人公たちを比較してみる。