考えないひと

なにか書きたいなあと思った。年末の創作記事でも書ければよいのだろうけれど、ちょっと気分じゃないというか、それほどのまとまりも今日はない。書けるなら小説書いてるわいって感じ。
今回もおそらく身の上話を書きます。それ以外に考えたり書いたりできることがひどく少ない。

生活に困窮しているのはここ数か月どころの話ではなく、なので今さら言うまでもないのだけれど、もう年末ということにはびっくり仰天している。年の瀬の挨拶を交わしたり、そのまえにクリスマスのプレゼントを渡してみたり(超なけなしの稼ぎから、ではなくてそれとは別に職場で貰った僅かなあぶく銭から捻出した)、そういう行事や節目には感慨深いものがある……のか? よくわからない。
生き延びることに必死にならざるを得ない一年で、それは現在進行形なので、そんな悠長に振り返っている余裕はないな、というのが正直な気持ちかもしれない。
この間の困窮度合いはもうどうしようもないところに差し迫っていて、生活保護の相談に行ったりもしたけれど、結局受給していない。にんげんではなくて「受給者」といういきものに生活を変えようとするあの制度がどうしても使いたいと思えなかった。
望ましくない選択をしたなと思う。困窮した人間が社会保障を利用しないなんて、個人的な心情を正直に言うならば迷惑で害悪だと思うことがある。適切に制度を使わないから適切な制度にならない。わたしの知識が確かであればだが、生活保護の補足率は約2割だ。今の5倍のにんげんが使うものとして制度が運用されていたら、社会は少なからずいまと違ったかたちをしているだろう。
とは言え上記の思いも適切でない自覚があるので、ひとに向かって言いたくはない。ただし自分には向くのでなかなか難しい。

親は、援助するからちゃんと職を選ぶようにと言ってくれる。
「ちゃんと」というのは、持続的に働ける仕事という意味だろう。いわゆる正社員で、かつ自分にとって無理がない条件の。
わたしのなかにはこれを自分に選ばせまいとするアレルギーのようなものがずっとある。考えると、行動すると、気持ち悪くなって調子がおかしくなってしまう。
自分はどのみちどんな仕事であれ辞めるだろう、という確信のような呪いであったり、「就社する」ということ自体への違和感であったり、病気を抱えて生きるうえでの途方もない困難を思うパニックであったり、というものがアレルギーの内訳に相当するのだと思う。
これまでのわたしは1~2年働いては半年休むという生き方をしてきていて、それ以外のモデルはいまだ得られずにいる。けれど、生活(独居における経済面)はもはやそれを許す状況ではなくなってきていて、かつこれから歳を重ねるにしたがって社会もそのモデルを簡単には遂行させてくれなくなるだろう(若年層はやはり就職には有利だ)。
いまだって正直に言えばもう辞めて休みたい。でもそれはもう許されなくなってしまった。病気の正体をつかんで社会制度の利用をするようになってもなお、やはりそれが許されるほどの援助(具体的には年金とか)を受けられるわけではない。

今年は冬季うつみたいなものがひどい(いやほんとうは秋のほうがひどかったのだが)。もともと寒さにはめっぽう弱くて寒さ=絶望みたいに感じる節がある。
でも以前住んでいた家よりも今の家はずっと暖かい。そして前述のとおり実際比較にならないほど調子が悪かったのは冬というより秋。だから実際のところは、日照量の低下そのものより、独居のむなしさと困窮の危機感+季節の変化がうつをひどくしているのだと思っている。もう百回は言ってる気がするけれど、独り暮らしがほんとうに向いていない。なんのために生きなくてはならないのかわからなくなる。わたしの生命維持のためだけに用意された環境と資源は、すべてが無駄でもったいないことのように思えてくる。ご飯作ろうがお風呂入ろうが誰のためにもならない、裏を返すと自分ひとりのためならやったほうがいい理由を見つけられない。独居になってほんと整容のハードルが上がった。
死んでしまいたいとはめったなことでは思わないのだけれど、死なないほうがいい理由はいつもまったく見つからない。生きるのに理由も理屈もいらないのが社会福祉の考え方だがそれとはちょっとまあズレたところで。

ところで薬を飲み始めた。気分の波をやらわげる薬。たったの2mgなのだがこれがけっこう明確に効果がある。些細なことを突然に思い出して怒ったり恥を感じたりするのを一日に何十回と繰り返していたのだが、それはほとんどなくなった。パニックになって身動きがとれなくなることも、考え事をしすぎて涙が出ることも。考えは置いといてとりあえず行動しよう、と思えるようになった。我慢できなかった音や光がちょっと許容できるようになった。代わりにちょっと眠かったりぼーっとしたりする時間は増えた。
考えなくていい、というのはわたしには革命的なことで、そりゃ考えなくていいなら行動もできるよね、ということがめちゃくちゃたくさんある。「正社員の求人に応募する」こともそのひとつだ。実際できた。受かってはいないけれど。
いろんなものを取りこぼしているような恐れはあるが、生きるために仕方ない折り合いなのかもしれない、と思っているのか、薬の効果で思わされているのか。考えることが小説を書くことの原動だったから、今後も小説が書けるのかだけが不安だ。それはそれとして書かずとも(考えずとも)生きていけるという道があるのは、確かに必要なことなのだろう。

なんにしても疲れ切っていて、困窮もしきっていて、持続的な生活のためにじっくり取り組む余裕がない。生活できない仕事をこんなに必死に頑張ってても意味がないな、と思ったら、衝動的に近場のコールセンターの仕事に申し込んでしまった。今の状態ならできるかもしれないし(薬を飲んでなかったらたぶん周りの音に気をとられて自分の仕事に集中できないだろう)生活はいまより良くなるが、「ちゃんと」した仕事というほどの待遇ではない(まあ選考はこれからだからなにを言っても絵空事だけど)。
それでも今は先送りにしたい。当事者は親でも社会でもないわたしなのだ。
考えない、という強みのことについていまはじっと考えている(ふりをしている)。そのそばに立ち、まなざしを注いで、少し抵抗をにじませながら。

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