行間

そろそろまたいろいろ書かなくてはならない頃合いだなあと思った。とは言え、およそ言葉にできないことばかりため込んでいる。
言葉にすることは自分の「内にある悩み」を、「外にある課題」として切り離す作用があると思う。社会福祉におなじみ「外在化」というやつ。言語化による共有は確かに強力な作用があるけれども、それはあくまで言語化できたという前提のうえにある。共有できた範囲が狭ければ、課題を置くテーブルそのものが狭いということ。そこで扱えることも小さくなってしまう。

わたしが「課題」として扱わなくてはならないことは山のようにあるのだが、それらすべて今は内側に埋もれてしまっている。とかく言葉が出てこないし、それでも絞り出した言葉のなんとみじめで矮小なことか。言いたいことがこれっぽっちも言えていないと、更に塞いでしまう作用ばかり強い。
しかしこれって実は、言語化が下手というところには一切問題の焦点はなくて、どうやって課題を外に吐き出していくか、それをどう共有していくかという話だ。
ひとりで言葉を編み上げられるなら苦労はない。困難に言葉を与えるのはもとより難しく、(言語化と称しておきながらアレだけども)すべてを言葉にできるわけでもない。非言語が語るものはかなり強力だ。
そして、課題は共有できなくては意味をなさない。吐き出すだけでは切り離せない。だから適当な相手と分かち合う必要がある。今の生活はそれが全然できないのでほんと不向きなのだなと思うし首がしまる一方だ。
共有する相手を得る難しさを思う。親愛を感じる相手はありがたいことにたくさんいるけれど、このみじめさ、むなしさ、孤独感までは分かち合えないなという絶望が一緒にある。もっともそれを目的にひととつながるのがどこまで健全なのかも怪しいものだが。
わかってくれないひとには話したくない、というのはわがままだろうか。わがままと言われるのは別に構わないけれど(※ただし相手のことは見限る)、その態度を理由に批判されたり、自業自得とか自己責任とかって説かれたくはない。
わかってくれるかもしれない、という希望を見いだし、可能性を追うことを、わたしに求められても困る。わかってくれるかもと思わせる態度は、わかりたいと思う側が表出すべきものなのではないか。
(ものすごくナンセンスなことを書いているな……)

周りのひとのことが、とかく羨ましい。
音楽がやれる、小説が書けるというのは当然ながら、疲れたときに外食で済ませられるとか、躊躇なく定期券が買えるとかそういう段階の話になってきた。非常によくない。わたしはこのままでは生きていけなくなってしまう。お金がなくなるからではなくて、こころが枯れ、生きることの価値がわからなくなることによって。
仕事を辞めないため、そして新しい仕事を見つけるためにいろんな取り組みをしているけれど、正直我がごとではなくなってきてしまった。でもいま我がごとに感じることは、あまり取り合ってはならないのだろうという理性はまだ残っているのでやっていけている。

言葉にする余裕がない。言葉にすると気づいてしまうし晒してしまう。そこに耐えるだけの余裕がない。はやく自分を助けなくてはいけない。言葉を置くテーブルと、対面して座ってくれる相手を見つけなくてはいけない。言葉を吐く以外のところ、そういうセッティングにわたしの努力を求められることが、許せないにしても。
あまりこういう瀬戸際で長く過ごすべきではない。こういうところに長くいると元には戻れなくなる。はやくにんげんになりたーい!

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